
承認欲求が経済の駆動原理になった社会の姿
前回の記事では、BIの導入によって経済を動かす原理が貨幣動機から承認動機に移行することを論じました。今回の記事では、そうなった後の社会がどう変化するかについて想像を巡らせてみたいと思います。
まず第一に考えられる変化は、労働動機の転換です。現在、多くの人は生活のために働いています。社会からの承認を求める気持ちがないわけではありませんが、それだけでは生活できず、家族を養うこともできません。そのため、本当にやりたい仕事よりも「稼げる仕事」を優先せざるを得ないのが現実です。
しかし、ポスト資本主義社会では、この前提が大きく変わります。人々の生活が基盤的に保障されるようになれば、お金よりも「社会的承認」を得ることを目的として働く人が増えるでしょう。貨幣欲求に比べ、承認欲求が労働動機のなかでより大きな比重を占めるようになるのです。
次に想定されるのが、貨幣の役割の変質です。具体的には貨幣のトロフィー化がよりいっそう進むことです。貨幣のトロフィー化というのは前回の記事でも触れたように、競技の勝利者に与えられるトロフィーと同様、貨幣が栄誉などの社会的承認を示すシンボルとなった結果、他の富との交換の道具という本来の役割が薄れ、それを集めること自体が目的化することです。その帰結が貨幣のトロフィー化です。しかし、このことは、当然ながら貨幣の役割を問い直す機運を生むとともに、その根本的な変容をも促すことになるでしょう。もしかしたら、その結果、今の形の「お金」が姿を消し、まったく新しいシステムに移行していくことも十分に考えられます。
そしてもうひとつ、より大きな変化も予想されます。それは、承認欲求すら通過点となり、より高次の欲求へと人々が向かう可能性です。有名なマズローの欲求五段階説を引き合いに出すまでもなく、下位の欲求が満たされれば上位の欲求へと移行するのは自然な流れです。承認欲求が満たされる社会では、貢献欲求、自己実現欲求、さらには自己超越欲求といった、より純度の高い動機が人々の行動を動かし始めるでしょう。
承認欲求は時代遅れなのか?
最後に、誤解を招かないよう、補足しておきます。近年、「承認欲求疲れ」という言葉に象徴されるように、承認欲求はどちらかと言えばネガティブな意味合いで語られる傾向にあります。たしかに、SNSにおける過剰な自己顕示や他者との比較に明け暮れる様子を見ていれば、そうした見方もうなづけます。しかし私は、承認欲求は人類の設計図にあらかじめ組み込まれた本質的な欲求であり、それを抜きにして人間という存在を語ることはできないと考えています。
他者から認められたいと願うのは人間としてきわめて自然なことです。それは単なる自己顕示欲ではなく、個としての存在を確認し、社会関係の中で自らの位置を確かめるうえで不可欠な営みです。これは量子力学において観測行為によってはじめて粒子の状態が確定する現象にも似ています。人間もまた、認め認められるという「観測行為」を通して、初めて社会的存在として「確定」するのです。またそれほど人間にとって本質的なものだからこそ、この承認欲求は人類史を通じて普遍的に存在し、現在まで脈々と受け継がれてきたともいえるでしょう。
現代社会において承認欲求が歪んだ形で表出している事実は否定しません。しかし、それは承認欲求それ自体が問題なのではなく、それが健全に満たされない社会構造の歪みに原因を求めるべきです。同様のことは、かつての部族社会におけるポトラッチのような逸脱的な浪費行為にもいえます。その表出形態は決して健全なものとは言えませんが、それは当時の社会構造にそのような表出を許すバグがあったからとみるべきでしょう。そしてもちろん、その裏には承認を求めてやまない人間の根源的な欲求が存在していることも忘れてはなりません。
このように承認欲求は、時代や社会によって表現形態を変えつつも、人間を内側から突き動かす根源的な生命エネルギーとして、歴史を通して機能し続けてきました。したがって、私がここで定義する承認欲求というのは、SNSの「いいね」を求めるような他者に過剰に依存した自己顕示欲求ではなく、もっと深い次元に横たわる、人間が人間であるために欠かせない根本的な欲求を指します。さらにいえば、それは貢献欲求や自己実現欲求、さらには自己超越欲求といったより高次の欲求がそこから生まれる土壌となる基盤的な欲求でもあります。
それを単なる「自己顕示欲」と切り捨てるのではなく、むしろ人間性の中核にあるものとして見つめ直し、それがより健全な形で表現されるよう社会に組み込み直すことーー。ポスト資本主義社会を形作る上では、そのことがひとつの重要な鍵になる、と私は考えています。
