
再分配の根拠ーーお金はなぜ再分配されなければならないか?
「自分が稼いだお金は自分のものだ。それを税金として取り上げ、他人に配るのは財産権の侵害ではないか?」 「働かない人を助ける義務なんてない。それは自己責任だ」。
最近、SNS上でこうした意見を目にすることが多くなりました。これは、いわゆる「新自由主義」的な、極端な個人主義的発想から来る、過激な、しかしその理屈を前提にすれば必然的に導かれる「正当な」主張です。しかし、その理屈は本当に正しいのでしょうか?
今回は、感情論ではなく「論理的」な視点から、なぜこの理屈が間違っているのか、そしてなぜ再分配が必要なのか、その根拠を紐解いていきます。
お金は「個人の所有物」ではなく「公共財」である
その根拠として最初に挙げたいのは、お金は「個人の所有物」ではなく「公共財」であるということです。
多くの人は、お金を「個人の私有財産」と考えていますが、じつはそれは根本的な誤解です。お金はもともと交換を円滑に進めるための媒介の道具にすぎず、本来、貯蓄を目的としたものではありません。たしかに、貯蓄の機能も備わっていますが、それはお金という不完全な道具に内在する本質的な矛盾であり、いわば設計上の「バグ」のようなものです。
そもそもお金には、価値を示す尺度機能、決済に使える交換機能、価値を保存する貯蔵機能の三つがありますが、このうち交換機能と貯蔵機能は真っ向から対立します。交換すれば貯蔵できないし、貯蔵すれば交換できないからです。ここにお金がはらむ根本的な矛盾があります。交換のための通貨として設計されたビットコインが価値を貯蔵するだけの資産に堕したのも同じ理由です。
もちろん、現実に貯蔵機能がある以上、貯金すること自体は個人の自由ですし、また当然の権利でもあります。しかし問題なのは、それが過剰になったときです。
もし、すべての人が必要以上に貯蓄したらどうなるでしょうか? 当然、お金は市場に出回らなくなります。そして、経済の血液であるお金が流れなくなれば、取引は滞り、生産も停滞します。最悪の場合、モノやサービスの供給が途絶えることになります。そうなれば、いくら巨額なお金を貯め込んでいたとしても、その時にはただの紙切れとなっているでしょう。
要するにお金は「公共物」であり、貯蓄という形でお金を市中から引き揚げ、退蔵するのは本来の使い方ではないということです。たとえるなら、図書館で借りた本を返却せず自分のものにしてしまうようなものです。それはルール違反であるだけでなく、場合によっては犯罪行為でもあります。このことを端的に表しているのが、「お金は天下の回りもの」という格言です。お金はいわばバケツリレーのように、人から人へ滞りなく回ってこそその本来の役割を果たせるのです。
貨幣経済はカードゲームに似ている
とはいえ、お金はその設計上、どうしても貯蓄に回ってしまう傾向があります。そのため放っておけば一部に偏ってしまうのは避けられません。再分配が必要なのもそのためです。そうしなければ、お金は一箇所に偏在したまま流れなくなり、やがて経済全体が回らなくなってしまうからです。
もちろん、退蔵されないようお金を消費に向かわせるのもまた市場経済に備わった機能です。たとえば広告や販売促進などはその一例です。それらは購買意欲を刺激することで、ため込まれたお金を吐き出させるための仕掛けです。しかし、こうした市場的な仕掛けだけでは、お金の偏在を十分に防ぐことはできません。お金は利子がつくこともあり、「ある人のところには集中して集まり、ない人のところからは離れていく」強い性質を持っているからです。
したがって、政府などの市場外の権力が介入し、ある程度の強制力をもって再分配を行わなければ、経済の循環を維持できないのが現実です。これは強すぎる貨幣権力を基盤に動く現在の市場経済が本質的に抱える構造的な矛盾であり、宿命というものです。
このことは、貨幣経済をカードゲームにたとえるとわかりやすいかもしれません。現在の貨幣経済は、いわば「お金というカードをより多く集めた者が優位に立つカードゲーム」のようなものです。
カードゲームを経験したことのある人ならおわかりかと思いますが、この手のゲームは放っておくと、必ず「一人勝ち」の状態になります。つまり、一部のプレイヤーがほとんどのカードを独占し、他のプレイヤーは手持ちのカードを失ってしまうのです。こうなると、ゲームはそこで終了せざるを得ません。
貨幣経済も同じです。もし「自分が勝って得たお金だから、誰にも渡さない」と言って、お金の再分配を拒否し続ければ、資本主義というゲームそのものが必然的に終了し、結果として貯め込んだお金はただの紙クズになってしまいます。
それが嫌なら定期的にお金というカードを配り直し、全員が再び参加できる状態にリセットする必要があります。これが、資本主義経済において「再分配」が必要不可欠な理由です。
私たち国民には再分配を受ける権利がある
再分配の根拠にはもうひとつあります。それは「そもそも国民には再分配を受ける権利がある」というものです。
以前、「市場経済は贈与経済の上に成り立っている」ことを考察しましたが、これは、市場的な生産活動は、贈与経済圏が生み出した有形無形の財に依存していることを意味します。市場で取引される財やサービスは、じつは市場経済だけが単独で生み出したものではありません。それらは市場経済の基底にある贈与経済圏が無償で提供する広義の「公共財」があってはじめて成立するものなのです。
ここでいう「公共財」というのは、具体的には主に数学、物理、化学、医学などの科学的知識や言語といった人類の知的遺産を指します。さらにそこから生まれた道具や機械、生産ノウハウ、なども含まれます。要するに「車輪の再発明」をすることなく、その成果を土台としてただちに生産活動を始められる知識や技術のことです。そして、これらの知的遺産は、現代に生きる我々が生み出したものではなく、先人の偉業であり、また世代を超えてそれを育み発展させてきた社会的蓄積の賜物です。このような視点から見ると現代の生産活動において、個人の直接的な労働が占める割合は実はそれほど大きくありません。その大部分は、こうした過去の社会的遺産という公共財によって支えられているのです。
こういっても納得しかねる人は、仮にそれらの公共財がなかったならば、どうなるかを想像してみるとよいでしょう。たとえばドライバーという道具がなければネジ一本回せませんし、最低限の算術知識がなければ、大工仕事ひとつできません。また日本語という共通言語がなければ互いに意思疎通ができず、協力して作業を遂行することもできません。このように、それらがなければ私たちの生産活動のほとんどが日々「車輪の再発明」に時間を取られるばかりで、そこから先へは一歩も進めなくなってしまうのです。
また、文化、治安、教育水準といった社会的インフラも同様です。治安が悪い地域で、何の支障もなく円滑に経済活動を営めることは稀であり、むしろ幸運ですらあります。治安が維持され、社会秩序が保たれているだけでも、私たちは感謝すべきです。場合によってはその維持コストを分担する義務があるといってもよいでしょう。
では、こうした「公共財」を先祖から受け継ぎ、日々維持し、次世代へ引き継いでいるのは誰でしょうか? それは私たち国民全員です。つまり、私たち国民は、それら「公共財」の正当な遺産相続人であり、所有者であり、管理者なのです。
ところが、現実には、多くの企業ーーすなわち資本ーーはこれらの「公共財」を事実上無償で利用しています。いわゆる「フリーライダー」として、何の対価も払うことなく好き放題に濫用しているのが現状です。そして、私たちはそうした一方的な搾取に対して、ほとんど有効な手立てを持たないまま、ただ傍観しているのが現状です。いや、というよりそもそもその事実にすら気づいていないのが実情ですがーー。
しかし、私たちの共有財産を利用して利益を得ているのであれば、それに対してきちんと利用料を支払うのは当然です。そして、私たちは誰もがこの先祖から受け継いだ共有遺産の「正当な相続人」であり、共同所有者です。であるなら、その利用料は私たち国民全員に還元されてしかるべきです。これが再分配が正当化されるもうひとつの根拠です。
ちなみに、こうした考え方を端的に表したのが、BIの別名である「国民配当(national dividend)」という名称です。国民は消費者や労働者であるだけでなく、社会という公共財の共同出資者であり、共同所有者でもあります。国家をひとつの会社とみなすなら、その主権者である国民は全員その株主ということになります。であれば、国民には当然、その配当を受け取る権利があるというのが、その名称に込められた考え方です。
なお、この公共財の中には通貨制度も含まれることも忘れてなりません。現代の貨幣システムは、それ自体が経済の基盤となる社会的インフラであり、きわめて重要な公共財のひとつです。そう考えれば、公共財であるお金を必要以上に貯め込む行為は公共財の私物化にあたり、ルール違反とみることもできます。よって、過剰にお金を貯め込んだ者に、その分の利用料が課されるのは当然であり、したがってまたそれが再分配の財源として充当されるのも当然といえるでしょう。
「再分配は、自分の財産が奪われることだ」という見方を少し変えて、「経済というゲームを維持し、そこからの配当を皆で分かち合う仕組み」と考えてみてはどうでしょうか。そうすれば、私たちがこれから目指すべき新しい経済の姿もきっとそこから浮かび上がってくるはずです。
