
BI社会を動かすものーー貨幣欲求に代わる新たな経済の駆動原理とは?
前回の記事では、BI導入によって経済を駆動する原理としての貨幣獲得動機が弱まること、そしてそれに代わる新たな動機が浮上してくる可能性を見てきました。
今回の記事では、その「貨幣欲求に代わる新しい動機」とは何かを探ってみたいと思います。
では、貨幣欲求が主役の座から退いた後、その空白を埋めるものとして現れてくるのは、一体何でしょうか。
ここに、そのヒントとなる興味深い事実があります。それは、生活に必要な基本的ニーズが十分に満たされた人々が、それでもなお、あるいはむしろより一層、生産や労働に没頭していることです。
承認欲求で動くエリートたち
例えば、イーロン・マスク氏、サム・アルトマン氏、孫正義氏といった世界的な起業家たちは、「生活に必要なものに不自由せず」、「将来への不安も通常の人に比べてはるかに少ない」人たちです。それどころか、すでに巨万の富を持ち、私たちの感覚からすれば欲しいものは何でも買えるし、もはやそれ以上、お金を儲ける必要も、働く必要もない人たちです。なのに、彼らはむしろ一般の労働者以上に毎日忙しく働き、精力的に活動しています。
なぜ、彼らはそこまでして働くのでしょうか。
結論から言うと、彼らを突き動かしているのは、おそらく「承認欲求」です。
承認欲求とは、自分が価値ある存在であることの「承認」を求める願望です。それは一般に、名誉や威信といった社会的な評価の形で得られます。つまり、彼らが懸命に働くのは、世の中を驚かす商品やサービスを生み出すことで、社会から称賛や尊敬──つまり承認──を得たいという動機からなのではないでしょうか。
もちろん他者の内面のことゆえ断言はできませんが、少なくともそう考えた方がつじつまは合います。たしかに彼らは見返りとして巨万の報酬を得ています。したがって、それだけを見れば、彼らもまた貨幣欲求に突き動かされて働いているようにも見えます。しかし、それは私たちの思い込みというものです。私たちの心には「人は貨幣を求めて働くもの」、「貨幣は物質的な富を象徴するもの」という先入観があります。そのため、「働いているということは物質的な富を求めてのことに違いない」と勝手に解釈してしまうのです。
しかし、彼らにとって巨額な報酬はおそらく、たんなる物質的な富の象徴ではありません。ならば何なのかといえば、それは、おそらく社会的評価や栄誉を示すある種の「トロフィー」のようなものなのではないでしょうか。スポーツ競技などで勝利者に与えられるトロフィーがそうであるように、彼らにとって巨額な報酬はビジネスにおける成功とそれに対する人々の賞賛を象徴するシンボルとなっているのです。そして、もしそうだとすれば、彼らがあそこまで熱意をもって働くのは、貨幣そのものの獲得が目的ではなく、それが象徴する承認ーー他者および自己からのそれーーを得るためであるーーそう考えるのが自然でしょう。
こうしてみると、すでに一部の人は、貨幣欲求ではなく、承認欲求(もしくはそれに類する欲求)によって動いているのかもしれません。
私たちも承認欲求に動かされている
さらに言えば、承認欲求によって動かされているのは一部の特別な人々だけではありません。じつは私たち一般人も、すでに承認欲求によって動かされている現実があります。
分かりやすい例がX(旧ツイッター)やnoteなどのSNSです。Xやnote上では、本来なら有料で取引されてもおかしくないような貴重な情報や作品が無償で大量にアップされています。これらの貴重な情報を生み出す原動力のひとつとなっているのが「いいね」という他者からの承認であるのは間違いありません。
それはスポーツ選手が金銭的な報酬ではなく、メダルという名誉を目指して競い合うのにも似ています。すなわち、Xやnoteのユーザーたちは「いいね」という承認を求めて、金銭的な報酬もないのに競うようにして情報発信という知的生産活動を行っているのです。こうしてみると、我々もまたすでに貨幣欲求ではなく承認欲求によって突き動かされているといってよいのではないでしょうか。
人類を駆動させてきたのも承認欲求
ここでもうひとつ、興味深い事実を提示しましょう。人類の長い歴史を眺めると社会と経済を駆動する原動力となったのもこの承認欲求です。
たとえば大昔の部族社会では狩猟や採集が主な経済活動でしたが、そこでは獲物は、部族全員に公正に分配されました。なぜなら、獲物を分け与える者は栄誉や威信が得られたからです。もちろん独り占めする者はほとんどいませんでした。そんなことをしたら軽蔑され排斥されるからです。つまり、こうした部族社会では経済活動がそのまま社会的承認を得る行為でもあったのです。
封建社会も同様です。象徴的なのは王の振る舞いです。王はしばしば宴席を設け、参列者に自らの富を惜しみなく分け与えました。節約という意味での経済的思考に慣らされた現代人からすればなぜそのような無駄な浪費をしたのかと理解に苦しむことでしょう。しかし当時はそうすることが栄誉であり威信を示す行為だったのです。逆にそうしないと王の威厳は保たれませんでした。そしていうまでもなくそうした行為の裏にあったのも承認欲求です。
こうした承認欲求の強さをより端的に示すのが、かつて北米先住民の間で行われていた「ポトラッチ」と呼ばれる風習です。ポトラッチとは、贈り物のやり取りを通じて社会的地位や名誉を競い合うある種の儀礼です。具体的には主催者が宴を開き、参列客に豪華な贈り物を与えるというものです。これに対し、贈り物を受け取った側は、後日さらに価値の高い贈り物を用意し、同様の宴でもてなすという形をとります。
面白いのは、この「贈与競争」は延々と続き、どちらかが身を引くーーつまり「負け」を認めるーーまで終わることがないことです。
しかもこの贈与競争は時に自らの財産を破壊したり、燃やしたりするまでエスカレートすることがあります。なぜそんな馬鹿げたことをするのか、とこれまた現代人は不思議に思うかもしれません。じつはここにあるのも承認欲求です。破壊することは、自らの豊かさを誇示することであり、それは、自分の富は無尽蔵であり、これくらいなくなったところでびくともしないぞ、と大勢の人の前で示してみせるパフォーマンスなのです。
要するに、自らの財を破壊することは、他者に何かを与える贈与と同様、栄誉と威信を生む行為なのです。気前よく財物を振る舞う王の宴席も原理はこれと同じです。
現代社会に息づくポトラッチ的感性
ちなみにこのポトラッチはなにも北米先住民の間だけにみられる特殊な習俗ではありません。同じような習俗は形を変えて世界中で見られます。
たとえば日本にはお裾分けという似たような習俗があります。「お裾分け」は、収穫物や贈り物を隣近所同士などで分かち合う習慣です。こういうと身も蓋もないのですが、一見純粋な他者への贈与という形式をとるこの行為の裏には、じつは感謝や尊敬を得たいという承認欲求が隠れ潜んでいます。お中元やお歳暮といった贈り物を贈り合う習慣も同様です。根底には、たいていの場合、似たような承認欲求や相手へのコントロール欲求が隠れ潜んでいます。
さらに贈り物を贈り合う習慣であれば、それは今もなお世界中どこにでも見られる習慣であり、文化です。つまり、私たち現代人の文化の根底にはいまもなおポトラッチと同様の承認欲求が息づいているのです。
ここで思い出すのは、私が昔、広告業界にいた時、ある人から教えられた言葉です。彼はこう言いました。「経済とは何か? それは女性に贈るため男性が装飾品を生産することである」と。ここまでの話と照らし合わせるとなんとも意味深な言葉ではないでしょうか?
最後に、この承認欲求が現代社会でもいかに強力な動機づけとなっているかを示す、象徴的な事例をふたつ挙げておきましょう。ノーベル賞とオリンピックです。ノーベル賞は学術分野での貢献者に対して、オリンピックの金メダルはスポーツの勝利者に対して与えられる事実上、現代最高の栄誉です。しかも、それは受賞者本人の承認欲求を満足させるばかりでなく国家的、民族的なスケールでの承認欲求を満足させるものでもあります。ノーベル賞の発表やオリンピックの授賞式の際、受賞者本人だけでなく、その出身国など関係する国全体が熱狂の渦に包まれるのはそのせいです。
以上、承認欲求がいかに深く人間社会に根付いているかを検証してきました。ここからわかるのは、何万年もの間、人類を突き動かしてきたのは承認欲求であり、しかも人を動機付けるその力は今なお衰えていないという事実です。
経済の駆動原理は貨幣欲求から承認欲求へ
前置きが長くなりましたが、ここからが本題です。前回の記事で、BIの導入やAIの進化によって貨幣獲得の動機が低下した時、経済を駆動する原理としてその空白を埋める動機はいったい何であるか、という問いを立てましたが、ここまでの議論を踏まえればその答えはもはや明らかでしょう。
そう、承認欲求です。
承認欲求は、人類の長い歴史を通して人間の行動を根源的なレベルで動機づけてきた欲求です。現代人をもっぱら動機づけている貨幣欲求は、近代資本主義という特殊な条件下でたまたま一時的に前景に立ったにすぎません。それに対し、承認欲求は、ポトラッチ、お裾分け、ノーベル賞、オリンピック、さらにSNSの「いいね」といった形で時代ごと、また社会ごとにその姿を変えながら古代から現代まで連綿とその命脈を保っています。
こうしてみると、将来、経済を駆動する原理として貨幣獲得動機が低下した後、その空白を埋めるのが承認欲求であるのはかなりの確率で間違いないといってよいのではないでしょうか。
次回の記事では、承認欲求が経済の駆動原理になった社会の姿について考えてみたいと思います。
