
貨幣権力の民主化──「お金がすべて」の社会を変えるために
前回の記事では、市場経済の膨張力の根底に「貨幣権力」があることを指摘しました。そして、今私たちが議論しているのは、「どうすれば市場経済の膨張力を抑えられるか?」という問題です。
そうであるなら、「だったら貨幣権力を弱体化させればよいのでは?」と考える人も多いかもしれません。表面だけを見れば、たしかにその通りです。
しかし、この問題はそう単純ではありません。
というのも、現代の経済は貨幣権力の上に成り立っているからです。実際、現代社会ではほとんどの場合、貨幣の獲得を目的に経済活動が行われています。言い換えれば、いまの経済を駆動させているのは貨幣権力そのものだということです。したがってそれを完全に無力化することは困難だし、また非現実的でもあります。無理にそうしてしまったなら、経済ばかりか社会全体がマヒしてしまうことでしょう。
ではどうすればよいのでしょうか?
勢力均衡原理と貨幣権力の民主化
答えはこれです。絶対的な力を低下させるのが難しければ、相対的に低下させればよいーー。
貨幣権力の問題は、権力それ自体よりむしろ人々がそれに振り回されることにあります。であれば人々が貨幣権力に振り回されなくてすむようにできれば、結果的に貨幣権力を低下させたのと同じになるはずです。
ならば具体的にどうすればよいのでしょうか? 結論からいえば、お金を配ることです。お金を配れば人は必要以上に貨幣権力に振り回されなくなります。
なぜ振り回されなくなるのでしょうか?
それを理解するヒントは、「勢力均衡(バランス・オブ・パワー)」にあります。
権力に対抗するには、別の権力を用いるのが有効です。そうすれば、相手の権力そのものを直接打ち砕かなくても、その影響力を相対的に弱めることができます。たとえば、国際関係において、力の劣る小国であっても一定の軍事力や経済力を持っていれば、大国が無理難題を押し付けてきても一方的にいいなりにならずにすみます。規模は小さくともその軍事力や経済力を武器にすれば相手を牽制することが可能になるからです。また他の国と手を組めば、その牽制力はさらに高まります。これが勢力均衡の原理です。
貨幣権力についても同様です。こちらに金銭的な余裕があれば、相手が持つ貨幣権力は相対的に低下します。その結果、相手の要求に振り回されることが少なくなります。要するに、目の前にお金を積まれても嫌なことは嫌と拒否できるようになるということです。
このことは実際のビジネスの現場を考えると理解しやすいでしょう。
たとえば、あなたがフリーランサーとして仕事を探しているとします。もし手持ちのお金が不足しており、すぐにでもお金が必要な状態にあるならば、多少条件が悪い仕事であっても受けざるをえないでしょう。しかし、これが十分な蓄えがある時ならどうでしょうか? 条件の悪い仕事は即座に断るはずです。
このように、お金があれば、人はそれだけ取引の場で相手に対してより高い交渉力をもって臨むことができます。それはつまり、それだけお金に振り回されなくなったということです。そして、それは、その人にとってみれば、その分だけ貨幣権力が低下したことを意味します。
これがお金を配ることによって貨幣権力が低下するメカニズムです。
ここにあるのは、お金の権力を分配することで、お金の権力を抑えるという逆転の発想です。そして、これは民主主義における普通選挙の仕組みと同じです。普通選挙制度は、国民全員にその力ーー投票権ーーを分散させることで政治権力が一部に集中するのを牽制する役割を果たしています。同様に、一定額のお金を国民に一律に配ることは、貨幣権力が一部の富裕層に偏るのを防ぎ、その力を分散させる役割を果たします。すなわちお金を配るというのは「貨幣権力の民主化」を図ることでもあるのです。
貨幣権力の低下は円安を意味しない
ここで一つ、誤解を解いておく必要があるかもしれません。 「貨幣権力を低下させる」というと、「日本円の価値が暴落する(円安になる)のではないか?」と懸念する声が必ず上がってくるからです。
しかし、「貨幣権力(国内での交渉力)」と「為替レート(通貨の交換比率)」は、全く別次元の話です。
まずここでいう貨幣権力の低下というのは、生産者や労働者にも一定の貨幣権力を付与することでその交渉力を底上げすることを意味します。そうすることで、貨幣を持つ人に対して一方的に言いなりになることなく、自分の意思を貫けるようになる、というだけの話です。
個人的な例で恐縮ですが、フリーランスのライター・広告プランナーとして働いていたバブル期の私は仕事を断ることが多くありました。単価が安い、もしくは仕事が気に入らないという理由からです。要するに、選り好みをしていたのです。いまふりかえれば若気の至りであり、また赤面の至りでもあるのですが、そこには、「金で俺を動かせると思ったら大間違いでえ!」と啖呵を切った江戸時代の職人にも通じる矜恃がありました。要するに、いくら金を積まれても気に入らない仕事はしたくなかったし、自分を安売りしたくなかったのです。
じつのところ、こうした矜恃はあの当時、多くの人に共通するものでした。良い例が就職市場における企業と学生との綱引きです。バブル期の就職市場は売り手市場で、企業は学生を確保するために必死の努力を傾けていました。内定祝い金や高級レストランでの食事会は当たり前で、なかには海外旅行や自動車、さらにはマンションの頭金までプレゼントする企業さえありました。ところが、学生側はそれでも強気な姿勢を崩しませんでした。それどころか、気に入らない会社には「おととい来やがれ!」と洟も引っ掛けない態度でした。当時はそれほどお金の権力ーーすなわち人を言いなりにし、支配する力ーーが弱くなっていたのです。
しかし、だからといって当時の日本円が為替市場で弱くなったという事実はありません。それどころか世界第二の経済大国の通貨として世界中で強い存在感を示していました。その当時、何度か海外に渡航した私の肌感覚からしても、それはまさに飛ぶ鳥を落とすといってよいほどの圧倒的な存在感であったのを覚えています。
これは、先の勢力均衡のたとえでいえば、植民地時代のヨーロッパ各国が、力が互いに拮抗し合っていたためヨーロッパ内では必ずしも好き勝手にふるまえなかった一方で、アジア、アフリカなど外部の地域に対しては圧倒的な力をふるっていた状況にも似ています。
つまり、ここでいう貨幣権力というのはあくまでも同一通貨圏内における取引上の力関係のことであり、異なる通貨との価値を示す為替の話ではありません。要するに、両者はまったく次元の違う話なのです。もっとはっきりいえば、「国内で人々がお金にへりくだらないこと(貨幣権力の低下)」と、「通貨そのものの対外的な価値を維持すること」は対立するものではなく、当たり前に両立するものであるということです。
以上からもわかるように、お金を配ることは、単なる貧困対策ではありません。それは私たち一人ひとりに、「お金」という権力を振りかざして理不尽な要求をしてくる相手に対し「No」と言うための武器を配ることに等しいものです。そして、それは社会全体のパワーバランスを健全なものとするために本来、欠くべからざる民主的な仕組みでもあるのです。
