
人間はもう「いない」のかもしれない──AI議論が照らし出す「今がすでにディストピア」という不気味な仮説
「AIが意識を持たないまま人間がいなくなったら、AIが行うのは宇宙規模で見れば単なる物質の再配置にすぎない」。
これは、AIと意識をめぐる議論でよく語られる興味深い視点です。しかし、この視点を「今の経済の仕組み」に向けてみると、もっと奇妙で、不気味な光景が浮かび上がってきます。
もしかすると、私たち人類もまた、経済活動(とくに金儲け)という名のもとに、ただひたすら物質を並べ替え続けているだけなのではないでしょうか。
製品をつくり、運び、売り、廃棄する。
都市をつくり、壊し、再度つくり直す。
どれだけの価値創造や創意工夫があっても、大きな視点から見れば、それは結局のところ「物質の再配置」に過ぎないと言えます。
では、私たちはそれを「誰のために」行っているのでしょうか。
■ 人類はすでに「乗っ取られている」のかもしれない
ここで、もう少し大胆な仮説を立ててみます。
もし、物質の再配置を続けるこの巨大な運動の中心にあるのが「お金」であり、さらにその増殖こそが経済の最優先目的になっているのだとしたら──。
私たちは、とうの昔に「お金」というシステムに乗っ取られてしまっているのではないでしょうか。
本来、お金とは人間の生活を便利にするための道具にすぎませんでした。しかし現代では、お金のほうが中心にあり、人間のほうがその周りを回っています。
企業は利益のために働き、個人は生活のために働き、社会は成長(=貨幣の増殖)を至上命題として動き続けます。
この構造を突き詰めていくと、ある恐ろしい見方が浮かび上がります。
■ 「人類はすでに絶滅済み」説というブラックジョーク
もし「お金の自己増殖」こそが現代社会の主役だとしたら、人類はもはや主役ではありません。
もっと言ってしまえば──
現在の人類は、お金が増殖を続けるための道具として機械的に存在しているだけであり、自由な意志や感情をもつ本来の人類という形態ではすでに絶滅しているのかもしれません。
もちろん、これは比喩であり、ブラックジョークに近い発想です。しかしながら、この比喩が妙な説得力を持ってしまうのは、現実の経済の動きに明確な主体が見えないからです。
株価が暴落しても、景気が悪化しても、戦争が起きても、
私たちは「市場が反応した」「金融が揺れ動いた」と語ります。
そこには主体がいません。
まるで、人間とは別の巨大な自動運動が、私たちの生活を左右しているように見えることがあります。
■ AIではなく「お金」のほうが先に「意識なき機械」になっていた?
AIは、意識を持たない限りただ計算をし、物質を並べ替えるだけの存在である──という主張を聞くたびに、私はこう思います。
それは、すでに「お金」のほうがやっていることなのではないか、と。
お金は自己増殖し、
人間はその増殖を補助するために働き、
経済成長は不可欠とされ、止まると社会が崩壊すると言われます。
こうした構造を見ると、まるで「お金」がひとつの生命体のように振る舞っているかのように思えます。そして、それはすでに人間を隷属させたばかりか、自らが地上の新たな支配者として君臨しているかのようにも見えます。
■ では、私たちはどう生きるべきなのでしょうか?
ここで言いたいのは、「お金は悪である」あるいは「資本主義が終わる」といった単純な話ではありません。
むしろ、私たちが向き合うべき問いはこうです。
人間はこの「自動運動」からどうやって距離を取るのか。
AIの存在は、この問いをより鋭く浮かび上がらせます。AIが私たちを連れていく先にある世界が「たんなる物質の再配置」でしかないのなら、今現在、私たちが行っている行為の意味も問い直さざるをえません。
私たちの労働、消費、生産、そして経済活動は、果たして「人間中心の活動」と言えるのでしょうか。
それとも、すでに「お金の自動運動」の一部となってしまっているのでしょうか。
■ 「意識して生きる」ための問いを手放さない
この問いに対しては、すぐに答えが出るわけではありません。
しかし、AIという鏡に映った自分自身の姿を見ることで、私たちは次の問いを立て続けることができます。
「私は何のために動いているのか?」
「私は誰の意思を生きているのか?」
その問いを忘れないかぎり、たとえ世界が機械化し、お金の論理が暴走したとしても、私たちは「人間として生き直す」可能性を持ち続けることができるはずです。
