
「AIに絵を真似されると、なぜ心が痛むのか」──その怒りと、BIを拒む心理の意外な共通点
AIが自分の絵柄を模倣することに、猛烈な怒りを感じる。 あるいは、ベーシックインカム(BI)でお金が配られることに、「なんだか納得できない」と拒絶反応をしてしまう。
この二つは、テクノロジー論と経済論として別々に語られがちです。しかし、深層心理のレイヤーまで潜ると、そこには驚くほど似通った構造が見えてきます。
それは、私たちがこれまで絶対視してきた「近代的自我」という概念をめぐる構造であり、注目すべきはそれが綻び始めているという事実です。
作品もお金も、実は「自分の分身」
絵を描く人にとって、作品は単なる「モノ」ではありません。 そこには膨大な作業時間、生みの苦しみ、そして本人の魂そのものといえる愛情が込められています。だからこそ、作品は「自分の一部(分身)」だと感じられるのです。
じつはこのことは、お金に対しても同じことが言えます。 「汗水たらして稼いだお金」には、その人の苦労や時間が凝縮されています。だから、お金もまた「自分の命を削って切り出した分身」のように感じられるのです。
「ここからここまでが私」という境界線
私たちは近代以降、「自分の所有物」や「自分の成果」をしっかりと囲い込むことで、「これが私だ(アイデンティティ)」と確認して生きてきました。
- これは私の作品。
- これは私が稼いだお金。
そうやって境界線(ライン)を引くことで、自分を保ってきたのです。
だからこそ、 AIに作風を真似されることは、「私の境界線を勝手に踏み越えられた」ような痛みを生じさせます。 同様に、BIで再分配されることは、「私の分身(お金)を無理やり剥がされる」ような抵抗感を覚えます。
つまり、根源にあるのはどちらも「自分という領域が侵される恐怖」であり、それは経済や法律以前の問題なのです。
「所有」から「つながり」へ
しかし今、社会の急激な変化によって、その境界線はどんどん曖昧になっています。 作品は無限に複製されることで本物と偽物の区別がつきにくくなっていますし、投機ブームなどもあり労働とお金の関係も希薄化しつつあります。
つまり、私たちが信じてきた「自分=自分の肉体+成果物・所有物」というこれまでの図式が、根本から揺らいでいるのです。私たちがAIやBIに抱く恐怖の本質は、技術や制度そのものではなく、 「所有や成果によって自分を定義できなくなることへの不安」 なのかもしれません。
しかし、もし、私たちが「自分」の定義を少しだけ変えられたらどうでしょう? 「自分」という存在を、所有物(ストック)ではなく、流動的な経験や関係性(フロー)として捉え直すこと。 「固く閉じる自我」から、「開かれた自我」へーー。
そうやって境界線を少し緩めることができれば、AIもBIも、「奪うもの」から「自分を広げてくれるもの」に見え方が変わるかもしれません。
もしかしたら、AIやBIに対するアレルギー反応は、私たちが新しい時代の「自分像」へと脱皮しようとしている、その生みの苦しみでもあるのかもしれません。
だとすれば、怒りや不安の奥にあるのは、「自分とは何か」という問いかけです。この変化の時代、私たちはその答えを再びアップデートする時期に来ているのではないでしょうか?
