
「働かなくてももらえるお金」に価値はないのか?
労働価値説から読み解くベーシックインカムの正体
ベーシックインカム(BI)の導入について議論するとき、必ずといっていいほど次のような批判が出てきます。
「お金の価値は、人が汗水たらして働くことによって生まれるものだ。だから、労働をせずに配られるBIのお金には何の価値もない」と。
思うにこれは、「価値は労働から生まれる」というマルクス経済学における「労働価値説」を根拠にした批判でしょう。しかし、この批判の中にはひとつの大きな「見落とし」があります。
それは「そもそも労働力はどうやって作られるのか?」という視点がすっぽり抜け落ちていることです。
そして、その見落としを含めて考えるなら、この労働価値説はむしろ「BIにはしっかりとした価値の裏付けがある」というまったく逆の結論を導くことになります。
なぜ話が逆転するのでしょうか? もう少し深く見ていきましょう。
「働く力」はどこから来るのか?
「労働が価値を生む」というのは間違いではないかもしれません。しかし、その議論の多くは「労働者が成人して働き始めたあと」のことしか見ていません。
ここで少し時間を巻き戻してみます。一人の人間が一人前の「労働力」として働けるようになるまでに、一体何が必要だったでしょうか?
親による長年の養育やケア
学校や地域による教育
社会的な支え合いや文化的なサポート
これら膨大な時間と手間がなければ、誰もまともに働くことはできません。そして重要なのは、これら(子育て、家庭内のケア、教育など)のほとんどが、「お金のやり取りがない無償の活動」だという事実です。
ここでは、これらをお金のやり取りがからむ「市場経済」と対比して、「贈与経済(ぞうよけいざい)」と呼ぶことにします。
つまり、市場で価値を生み出す「労働力」は、実際には市場の外にある「贈与経済」によって育まれ、支えられているのです。
「お金の裏付け」の正体
この視点から、最初の批判をもう一度見直してみましょう。
批判者の主張:「価値の裏付けは労働にある」
見落とされていた事実:「その労働を生み出す土台は、贈与経済(ケアや教育)にある」
もし「労働」が価値の根源だとするならば、その労働を可能にしている「ケアや育成」という贈与経済もまた、価値を生み出すために不可欠な「土台」として認めなければなりません。
なぜならその贈与経済がなかったならば、労働の「価値」自体生まれないからです。
したがって、「労働の裏付け」を突き詰めていけば、必然的に「その手前にある贈与の営み」にたどり着くことになります。
ベーシックインカムは「ただのバラマキ」ではない
こう考えると、ベーシックインカム(BI)の見え方がガラリと変わるのではないでしょうか。
BIは、単に「働かない人にお金をあげる制度」ではありません。それは、「社会の土台である『贈与経済』が生み出した価値を、みんなで分かち合う仕組み」でもあります。
私たちは誰一人として、誰のお世話にもならずに大人になることはできません。誰もが贈与経済(親のケアや社会の教育)の恩恵を受けて育ち、そうしてはじめて社会に参加することができるのです。
つまり、BIとは「何もしないことへの対価」ではなく、「社会全体を支えている見えない土台(ケアや教育の成果)を、社会全体で再分配する仕組み」に他ならないのです。
労働を重視する立場からもBIは肯定できる
こうしてみるとわかるように、「労働の裏付けがないお金は無価値だ」という批判は、労働力が作られるプロセス(贈与経済)を無視している点において不完全です。
むしろそれが根拠にしている労働価値説に誠実になるほど、そして厳密に当てはめるほど、次の結論が導かれます。
労働は価値を生む。
その労働は、贈与経済(ケアや支え合い)によって作られる。
ゆえに、贈与経済を支える仕組み(BIなど)には、十分な価値の裏付けがある。
ベーシックインカムを「労働の不在」と捉えるのではなく、「労働を生み出す土台(贈与経済)への敬意と投資」として捉え直す。そうすることで、ベーシックインカムに対する議論はより深く、建設的なものになるのではないでしょうか。
