
人間が「商品」であることをやめる日──AI時代の生存戦略としてのベーシックインカム
「ベーシックインカム(BI)」と聞いて、みなさんはどのようなイメージが浮かびますか。 おそらく「働かなくてもお金がもらえる制度」や「貧困対策としてのセーフティネット」といった、福祉的なイメージを思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。
もちろんそれも正解です。しかし歴史や社会経済という、より大きな視座に立ったとき、そこには単なる福祉という狭い枠を超えた、壮大な輪郭が浮かび上がってきます。
そこで、今回は経済人類学者カール・ポランニーの名著『大転換』というレンズを使って、ベーシックインカムが持つ「本当の役割」について考えてみたいと思います。もしかしたら、それは単なるお金の話ではなく、私たちが「市場(マーケット)」とどう付き合い、どう生きていくかという、より大きな問いに対する答えでもあるかもしれません。
■ 「市場」が社会を飲み込んだ19世紀
ポランニーは、19世紀に世界が経験したある劇的な「逆転現象」を指摘しています。
それまでの人類史において、「市場(売り買い)」はあくまで社会の一部分にすぎませんでした。宗教や地縁、慣習といった大きな共同体の枠組みの中に市場が「埋め込まれて」おり、そこでは経済活動よりも人々の生活や絆が優先されていました。
ところが、産業革命以降の近代化によって、この主従関係が逆転します。「市場」が「社会」を飲み込み、生活のすべてが市場のルールに従うようになったのです。すなわち「市場社会」の誕生です。
その結果、本来は売り物ではないはずの要素までが、商品として扱われるようになりました。
なかでも代表的なものが次の三つです。
人間の尊厳ある営みである「労働」
自然そのものである「土地」
単なる交換手段にすぎなかった「貨幣」
ポランニーはこれらを「擬制商品(商品ではないのに商品扱いされているもの)」と呼びました。しかし、人間や自然を無理やり商品として扱えば、必ず歪みが生まれます。実際、19世紀のイギリスでは貧困が拡大し、過酷な労働や環境破壊によって人々の生活は疲弊しきってしまいました。市場の論理が、人間の暮らしを破壊し始めたのです。
市場が暴走し、人々の生活基盤が脅かされると、社会は本能的に防衛反応を示します。当時、労働法が制定されたり、福祉制度が整えられたりしたのは、市場の暴力に対するそうした社会側の「自己防衛」の結果でした。
自らの領域を無制限に広げようとする「市場の力」と、その破壊的な影響から身を守ろうとする「社会の力」。ポランニーは、この二つの力が絶えずせめぎ合う現象を「二重運動」と名付けました。
しかし、19世紀を通じて蓄積されたこの二重運動からくる緊張関係は、ついに限界を迎えます。20世紀初頭、第一次世界大戦という形で矛盾が爆発したのです。その後も、この矛盾を乗り越えるための「大転換」の試みとして共産主義やファシズムが台頭しましたが、これらも根本的な解決には至らず、世界は第二次世界大戦というさらなる惨禍へと突入することになりました。
戦後は、冷戦構造の下で「福祉国家」という妥協点が生まれ、一時的なバランスを取り戻したかに見えました。しかし、20世紀末からは再び市場原理主義(新自由主義)が勢いを取り戻し、私たちは今、その延長線上に立っています。
■ 21世紀、再び限界を迎えた「市場社会」
いま私たちが生きている21世紀は、かつての19世紀的な混乱が、より大規模かつ深刻な形で回帰している時代と言えます。
市場の力ーーすなわちマネーの力が世界の隅々まで覆い尽くし、社会の豊かさを生み出す営みとしての経済は、マネーゲームによる収奪の対象となっています。さらに手綱を失い、暴走する一方の市場の力は、商品ならざるものまでもその餌食にしようとしています。その結果、人間はもちろんのこと、いまや個人情報などのデータ、さらに伝統や文化といったものまでが値札をつけて売られるようになりました。
生きることそのものを含む生活のあらゆる場面が市場原理に組み込まれる極端な「商品化の時代」。ポランニーがかつて警鐘を鳴らした「市場の暴走による歪み」は、いまや再び限界まで膨れ上がっているのです。
では、この歪みを正すにはどうすればよいのでしょうか。
ここで必要なのは、単に市場の暴走を一時的に抑えるだけの、対症療法的な「社会的ブレーキ(二重運動)」ではありません。求められているのは、市場と社会の関係そのものを根本から作り直すこと。すなわち、矛盾を超克するための真の「大転換」です。
そして、その「大転換」をもたらす上で、重要な鍵となるのが、ベーシックインカムです。
■ ベーシックインカムがもたらす、21世紀の「大転換」
ベーシックインカムが社会に与えるインパクトの核心は、「働かざる者食うべからず」という市場の鉄則を緩め、労働と私たちの「生存」を切り離す点にあります。
「自分の労働力を売らなければ生きていけない」という強制から解放されれば、人間は無理に「商品」であり続ける必要がなくなります。 ポランニーの視点を借りれば、BIとは、これまで繰り返されてきた「市場 vs 社会」という終わりのない綱引き(二重運動)に終止符を打ち、暴走する市場をもう一度社会の中に埋め戻す「大転換」の試みでもあります。そして、それは資本主義が抱える長年の矛盾を乗り越え、私たちの社会が次のステージへ進むための道筋を照らし出す光でもあるのです。
ベーシックインカムは、市場中心のシステムから、人間中心の社会へと社会のOSを書き換えるためのスイッチです。お金のためだけに生きるのではなく、社会的なつながりや、市場では値がつかない価値を大切にできる暮らしを取り戻すこと──。21世紀の「大転換」は、すでに始まろうとしています。そしてその中心にある希望こそが、ベーシックインカムなのです。
