アンペイドワークとベーシックインカム

見えない労働の存在

私たちの毎日は、数えきれない「見えない労働」によって支えられています。家事、育児、介護、地域での付き合い――これらは経済統計には現れず、給与明細にも反映されません。
むしろ、あまりにも日常に溶け込みすぎているため、多くの場合、私たち自身もその価値に気づきません。
こうした見えない労働――それが「アンペイドワーク(無償労働)」と呼ばれるものです。

このアンペイドワークという概念が広く知られるようになった背景には、フェミニズム運動の影響があります。1970年代以降、家事や育児といった家庭内労働も立派な労働であり、報酬の対象となるべきだという主張がなされました。
当時、「主婦にも賃金を」というスローガンのもとで、主婦を対象とした一種のベーシックインカムが要求されたのも、こうした流れの一環です。この視点から見れば、ベーシックインカムはアンペイドワークへの対価を正当化するものと解釈することもできるかもしれません。

しかしながら、アンペイドワークに直接的な対価を支払うことについて私は、慎重であるべきと考えています。なぜなら、アンペイドワークの多くは、市場経済とは異なる領域(贈与経済圏)に属するものだからです。これを単純に市場労働と同列に扱い、報酬の対象とすることは、その領域を市場の論理で塗りつぶしてしまう恐れがあります。

たとえば、家族や地域の中で自然に行われてきた助け合いや思いやりが「いくらに値するか」という市場的な尺度で評価されるようになった瞬間、それは温かみのある人間的な行いから、冷たい市場取引へと変質してしまいます。

私がこれまで繰り返し主張してきた「贈与経済」において重要なのは、「価値をあえて数値化しない」という姿勢です。家族のために食事を作る、子どもを育てる、大切な人を介護する――これらの行為は、効率や損得を超えた人間的な営みです。それらは数値化できない行為であり、仮にそうしたならば、そこにある美しさと価値は太陽に照らされた朝露のごとく失われてしまうでしょう。

日本には「秘すれば花」という言葉がありますが、これなどは、まさにこのことを示しています。家事や助け合いといったアンペイドワークの美しさは、その価値が数値として明示されないからこそいっそう輝くのです。

それでは、アンペイドワークの価値を認めつつも、市場経済の侵食からその価値を守るにはどうしたらよいのでしょうか?

ここで重要になってくるのが、ベーシックインカムがもつ「一律・定額」という特徴です。ベーシックインカムは、個人が生み出す価値を厳密に数値化することなく、あくまで「大雑把」に全員に一定額を給付します。実はこの「大雑把さ」こそが、アンペイドワークを含む贈与経済を市場化から守る鍵になるのです。

大切なのは、アンペイドワークを「可視化」することと「数値化」することをきちんと区別することです。
可視化とは、その存在と重要性を認識すること。一方、数値化はそれを市場経済の論理に組み込む行為です。つまり、ここで肝心なのは、可視化しつつも数値化しないという絶妙なバランスを保つことなのです。

ここまで、アンペイドワークを数値化することの危うさについて論じてきました。けれど、それでもなお、ベーシックインカムをアンペイドワークへの支払い要求とみなすことには、大きな意義があります。

なぜなら、それは、社会の捉え方そのものに、ある種のコペルニクス的転換をもたらすからです。従来の社会契約は「市場労働に対する報酬」を前提としていました。しかしBI導入後の社会契約は、「人間の生活全体への尊重」を基盤としたものへと変わるでしょう。

私たちは労働者である前に生活者です。そして、その生活を支える無数の行為──多くは無償で、誰かに強制されるのでもなく、愛情や義務感から自然になされる行為──こそが社会の真の土台になります。BIは、この当たり前ですが見過ごされがちな真実を制度の上にたしかに刻み込む試みと言えるかもしれません。

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