
お金は誰かの自由であると同時に誰かの隷属である
お金は人を自由にする——だからこそ、万人に保障されなければならない
「お金があれば自由になれる」ーー。この考え方には、ある種の真実があります。実際、生活の心配をせずに済むことは、人が自分の人生を主体的に選び取るための土台となります。
しかし、そのお金の量に限りがある社会ではどうでしょうか? 誰かがより大きな自由を獲得すれば、その分、誰かがより多くの不自由を強いられる——そんなゼロサム構造が必然的に生まれてしまいます。この矛盾こそ、現代の資本主義社会の根幹にある問題です。
もう少し深掘りしてみましょう。現在の貨幣社会では、お金はあらゆる商品やサービスーーそれは自由の象徴でもありますーーを意のままにーーつまり自由にーー入手するための「交換ツール」であり、その意味でいわば「自由の代替物」です。実際、お金さえあれば、欲しいものが自由に得られるし、好きな場所に住めますし、嫌な仕事からも離れられます。逆に、お金がなければ、欲しいものが得られないばかりか、望まない労働ーーつまり不自由ーーを受け入れるしかない状況に追い込まれます。
つまり、貨幣が「自由」を担保している社会では、お金の不足はそのまま「不自由」へと変換されるのです。そして、供給される貨幣が限られ、その奪い合いが経済の前提になっている以上、誰かの自由が誰かの隷属によって成り立つという構図から逃れることは不可能なのです。これは「自由」という限られた椅子をめぐって繰り広げられる椅子取りゲームのようなものです。
この構図を無視して、「自由は自分の手でつかむもの」「努力すれば自由になれる」と言っても、それは真実から目をそらした綺麗ごとにすぎません。お金はたしかに人を自由にします。しかしその自由が「奪い合い」でしか得られないのなら、それは自由ではなく、支配の別名にすぎません。椅子取りゲームの勝者にのみ褒賞を与えることにすれば、ゲームの統括者は参加者を意のままに動かせるからです。
民主主義と貨幣の「本質的な矛盾」
民主主義社会とは、すべての人が平等に発言できる社会です。しかし、この自由を担保する貨幣が「平等に分配されていない」社会では、実質的に民主主義は成り立ちません。生きることすらおぼつかない状態では自由な発言などできるはずがないからです。
したがって、私たちが民主主義社会の一員である以上、貨幣が万人に保障されなければならないという結論は、きわめて自然な帰結です。貨幣を持つ人だけが選択肢を持ち、持たない人は選択肢を奪われる世界はとうてい民主主義とは呼べません。
私たちは、民主主義という理念を現実のものにするために、貨幣を万人に保障する社会へと進む必要があります。貨幣へのアクセスは一部の人の特権でなく、すべての人の基本権でなければならないし、それは民主主義社会が正常に機能するための大前提でもあるのです。
