
働くことは、他者の仕事を奪うことである
「仕事がないのはお前が怠け者だからだ」──この言葉は、長く日本社会に根づいた「常識」として語られてきました。
しかし、本当にそうなのでしょうか。
経済が成長していない、すなわち社会全体のパイが増えていない状況では、誰かが新たに仕事を得ることは、他の誰かがその分の仕事を失うことを意味します。このとき、「働くこと」は、誰かの「働く機会」を奪う行為にほかなりません。経済が拡大しない限り、私たちは限られたパイを奪い合うゼロサムゲームの中にいるからです。
経済成長が止まった社会では、「努力」は競争に変わる
高度経済成長期には、「努力すれば報われる」という考えに、ある程度の現実味がありました。企業も国も右肩上がりに成長し、新しい工場が建ち、新たな市場が生まれ、働く場も次々と増えていたからです。当時の「努力」は、他者の仕事を奪うことではなく、「新たな価値を生み出すこと」につながっていました。個人の努力が、そのまま社会全体の豊かさに結びついていたのです。
しかし、成熟社会を迎えた今、状況は一変しています。市場は飽和し、人口は減少し、需要は頭打ちです。こうした中で、誰かが「より長時間働く」「より低賃金で働く」といった形で努力すればするほど、他の誰かがその分の機会を失います。それでもなお、「働かないのは怠け者だ」と主張するのは、現実を見ていないと言わざるを得ません。それは椅子取りゲームで残っていた最後の椅子を獲得した人が、そうできなかった人に「椅子に座れないのは全てお前の責任だ」と言って突き放すようなものです。
「仕事がない」のは、個人の責任ではない
仕事がないのは、個人が怠けているからではありません。単純に、社会全体に「仕事の総量」が足りていないだけなのです。
特に現代では、テクノロジーの進化により、人間が担うべき労働の量は減り続けています。自動化、AI、業務効率化──これらは確実に「人間の仕事」を減らしています。これは誰かが怠けた結果ではなく、社会の仕組みそのものが変化しただけなのです。
「働くこと=善」という思い込みを手放す
この現状を理解するためには、まず「働くことは常に善である」という前提そのものを疑う必要があります。たとえそれが本人にとって誇りある行為であっても、他者の雇用を奪う結果につながるのであれば、無条件に「善」とは言えません。「働かない人を責める」よりも、「なぜ十分な仕事が存在しないのか」「なぜ誰もが生きていける基盤がないのか」と問うことの方が、はるかに建設的です。
「働かなくても生きていける社会」へ
本来、テクノロジーの進歩や経済の成熟は、人々を“労働から解放する”方向に進むべきでした。私たちはすでに、「生きるために全員が働かなくてもよい」だけの生産力を手にしているのです。それにもかかわらず、社会の制度や価値観がそれに追いついていません。
もし、ベーシックインカムのような制度によって誰もが最低限の生活を保障されれば、「働かないこと=他人の負担」という構図は消え去るでしょう。むしろ、「働かないこと=他者に労働と収入の機会を譲ること」という新しい価値観が生まれるかもしれません。同時に、「働くこと」は他者と奪い合う行為ではなく、「自分が何をしたいか」を表現する自主的な行為へと変化していくでしょう。
終わりに
経済成長が止まった社会で、無邪気に「働け」と促すことは、もはや暴力的ですらあります。私たちは、働くことそのものを美徳とする価値観を見直す時期に来ているのではないでしょうか。
「働くことは他者の仕事を奪うことである」──。
一見すると衝撃的なこの言葉ですが、この現実を直視することが、これからの社会を考えるための第一歩となるでしょう。
