貧困は自己責任か?
かつて貧困は個人の努力ではどうしようもない運命とみなされた。しかし今は自己責任を怠ったがゆえの悪徳とみなされている。
そうした変化を後押ししたのは、硬直した古い身分制社会から、職業選択の自由により階層間の移動が可能になった近代社会への移行だ。
また科学技術の発展に伴って生じた、世界は人間の意思によって思いのままに変えられるというある種の万能感が一人ひとりの心の中に芽生えたことも大きな要因であろう。
しかし社会階層の移動が可能になったとしても当然ながらそこには限界がある。生まれ持った才能や環境などは人によって違うし、才能にも環境にも恵まれない者がそれらのハードルを乗り越えて、社会階層を上昇するのは現実的には容易ではない。
それに科学技術がいくら発達したからといって、他者を含む世界を個人の意のままに変えられるはずがないし、変えようとすること自体、ひとつの暴力であり、それは思い上がりもはなはだしい謬見というべきだろう。
もちろん貧困は克服できる。というよりぜひとも克服すべきものである。しかしそれは個人の努力だけでできるものではない。じつのところ貧困を自己責任であるとして非難する人たちに欠けているのは経済学におけるマクロとミクロの視点だ。それがないため非難の対象が的外れになってしまっているのだ。
ミクロの原理とマクロの原理は異なる。したがってミクロで正しいことがマクロでも正しいとはかぎらないし、マクロの問題にミクロの解決策を持ち出しても無益である。いや無益である以上に有害である。ミクロの原理とマクロの原理はたいてい相矛盾するからだ。
重要なのは、ミクロとマクロを切り分けること、そしてここで非難されるべきはミクロな世界でしか生きられない個人ではなくマクロに責任をもつ政府の方だということをきちんと認識することである。