竹林の一愚ツイッター全集 労働・経済編その1

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●実体経済に回るマネーの絶対量が不足している。そうである以上、焦げ付く人が出るのは当然であろう。これはイス取りゲームであり、個人の努力の範疇を超えた現象である。

●晴れの日にしか傘を貸さないーー困窮した人にはお金が行き渡らないーーこれひとつとってもマネーシステムという公共インフラを銀行に任せておいてはだめだということがわかるだろう。

●経済こそが人生最大の問題であると誰もが思い込み、またそれに乗じて経済学者が大手を振っている今のおかしな時代を終わらせられるというのが私がBIを支持する理由のひとつです。「100年後には経済に関心を持つ人など病的な人以外いなくなるだろう」ーーJ・M・ケインズ

●働くことは人格を磨くことである、と考える人は僧侶が生産労働に携わらず、他人からの施しで生きることについてどう思っているのだろうか?

●貨幣権力を高めるには共同体を破壊すればよい。いざという時頼れる人がいなくなれば金に頼るほかなくなるからだ。ここに将来への不安を煽ることができればなお効果的だ。かくして金への信仰心を一段と深める寂しい人間が増殖することになる。

●投機バブルにも良い面はある。預金残高が能力や人徳とは無関係であることを明らかにしてくれるからだ。そうなれば金持ち=意識が高い人、貧乏人=意識が低い人等とレッテルを貼る怪しげなカルト教義も化けの皮がはがれていくだろう。そのような考え方はスピリチュアルを装ったネオリベ思想にすぎない。

●緊縮論者は二言目には「無駄遣い」はダメだというが、そもそも今の市場経済自体が壮大な無駄遣いだろうに。一体何を言っているだろうのか?

●生産現場へ科学的管理手法が本格的に導入されたのは90年代である。したがってそれ以降、生産性が上がりこそすれ、下がるはずはない。またそれ以前、起業を志す優秀な若者などはほとんどいなかった。このことからも昔の日本人は働き者だったが今はそうでないなどとは到底いえないだろう。

●よし! 徳川埋蔵金を裏付けとして日本経済復興の基金を作ろう! え、徳川埋蔵金などどこにあるんだって? 知らんけど、みんながそこに1000兆円分あるって信じればあることになるんじゃないかな。そんで誰も埋蔵金そのものを掘り出してはならないと取り決めておけば何も問題はないだろう。

●将来世代へ財政上のツケを回さないというが、途上国に落ちぶれ、社会的にも自国に誇りを持てなくなることはそれ以上に大きなツケ回しではないのか? それは乳幼児に「将来の学費のために今は我慢しましょうね」という毒親の仕打ちというものだ。心身の成長が阻害されてからでは遅いのだ。

●緊縮論者は二言目には「富裕層が金を引き上げる」というが、金を引き上げた(金を溜め込んだ)結果、富裕層になれたんだろうが。投資している? マネーゲームに投資しても実体経済に回ってこない以上、してないも同じだ。そもそも金を引き上げること自体経済的には犯罪に等しいことを忘れちゃ困るな。

●発明した個人とその子孫による数世代にわたる知的所有権を認めながら、その個人が属す国家という共同体による歴史を通した知的所有権の均等分配であるBIを認めないというのは論理的な整合性が取れていないと思うのだ。

●経済というのはお金を次々に渡し合うバケツリレーのようなものだ。それが滞りなく行われてはじめて生産価値は最大化する。それを途中でバケツをちょろまかして私物化するのはルール違反である。本来、罰せられるべき無法者であるにも拘らずむしろセレブとして崇められているおかしな現代社会。

●共同体が共同体たりうるのはそれが贈与原理で動いているからだ。家族しかり、会社しかりである(ダメ社員に給与を払わないなら社員にする必要はない)。国家も同様だ。では日本を解体するにはどうすればよいか? 一切の贈与を止めること、全て自己責任として一切の支援を停止すること、これである。

●市場経済は共同体を破壊する。そうして家族と地域コミュニティが破壊され、今や会社と国家の存在意義さえもが問い直されている。いかなる共同体にも頼らず生きていける超人ばかりの世界ならいざ知らず、いかなる共同体も存在しない世界ですべての人が幸福に生きていけるのだろうか?

●単純化していえば、日本の経済社会は生産ラインが並ぶ工場ではなく、アイディア勝負の広告会社に変貌したんだよ。8時から5時まで従業員を会社に縛り付けてビッグアイディアが生まれるか、という話だ。実際、ヒットを放つビッグアイディアは外注のフリーランサーが持ってくることが多い。

●労働を不可欠とする考え方に私が批判的なのはそう主張する人の多くが贈与の存在を忘れているからだ。

誰もが親、共同体、さらには太陽を含む自然環境からの無償の贈与でもって生かされているという自明の事実をなぜ無視するのか?

真の生産(創造)は贈与なしには生まれないのだ。

●奴隷的な労働があってはじめて人は規律を身につけ、近代的な社会人になれるというのが労働教徒の考え方のようだ。しかし規律を身につけさせるのは本来、教育の役目だろう。労働を通さないと身につかないというのは体罰でしか躾はできないというのにも似た体育会系的な発想にすぎない。

●労働によって倫理や規律が身につく? 今の状況をみる限り、他者への同情心など一切ない銭ゲバの倫理や自らの貨殖のみを目的とした独善的な規律しか身につかないと思うけどな。

●労働をしないと人は社会人になれない、という場合の「労働」とは?

「労働者の労働」と「企業家の労働」、さらには「投資家の労働」は似て非なるものだ。

社会人になるために「労働者の労働」が不可欠だというなら、今の企業家も投資家も再教育が必要だろう。

ポルポト的共産主義か?

●労働を何か神聖なものとして扱う人は、その労働自体、労働から一定の距離をおける自由人のアイディアから生まれたものであること、またそもそも苦行は悟りへ至る道ではないというお釈迦様の教えを忘れているのだろう。

●奪うより与えることの方に人は幸福を感じるーーマーケティングの最前線で学んだことのひとつだ。実のところ人が奪う(市場競争を行う)のは与えるためなのだ。卑近な例でいえば、女性に贈り物をするため男は働くのだ。すなわち秘密は贈与なのだ。社会的な贈与であるBIこそが新時代を開く鍵なのだ。

●余裕があれば与え合い、なければ奪い合う。人間社会はただそれだけのことである。余裕があるのになおも奪い合っているからおかしくなっているのだ。

●なぜありあまるモノやサービスに囲まれながらも金を貯めこむのか? 将来への不安からだ。不安というのはキリがない。それがある以上、一生分いや数世代あとの子孫の分まで貯めこまなければ気が済まないだろう。しかし世界の人全員がそれをやり始めたら太陽系全体を手に入れても足りないだろう。

●欠乏の時代に生まれた経済学を豊穣の時代になっても無理やり当てはめようとするからおかしなことになるんだよ。

●貨幣改革のキモはカネがもつ交換機能と貯蓄機能の分離にある。交換媒体として設計されたビットコインが当初の目論見から逸脱して資産クラスに堕してしまったのはその分離がうまくいかなかったからだ。しかし失敗したからこそそこにはヒントも見出せるはずだ。

●市場原理主義の観点からいって無償の義務教育は正しいのか? それは労働市場に国が介入することではないのか? 市場を歪めることにはならないのか?

●企業「金がなくて生産できない」←銀行「お金を貸しましょう」
消費者「金がなくて消費できない」←サラ金「お金を貸しましょう」

一時は増えたかに見えたお金だったが、やがてそれは利子としてどんどん外部へ流出し、町内での生産も消費も行き詰ってしまうのであった。

●勝者と敗者が一定割合で分かれるゲームでは敗者がいくら努力しても勝者と敗者が入れ替わるだけでその割合が変わるわけではない。すなわち自己責任が問えるのはミクロの世界だけであり、マクロの世界では問えないのだ。

●ハイパーインフレの際、出回る大量のお金は誰がどうやって生み出すのだろうか? 銀行がいいかげんな与信で発行する? 国債発行がどういう理由か歯止めが効かなくなる? 戦争や災害などで供給力が突然毀損され、同時に溜め込まれていたお金が市中に出てくること以外、考えられないのだが。

●貧困とは社会的な病気である。貧困層にも満遍なく課税するというのは、動けない病人に対して布団から起きて働けというようなものである。幼い子供や病に伏せる祖父母に「食事代、家賃、世話代」を請求する親がいるだろうか? それがないと暮らしていけないほどその親は貧乏なのか?

●払った税金はどこへ行く? 社会のために還流されるというのは全くの嘘である。血のにじむ思いで払った税金はお役人の手でゴミ箱にポイ捨てされるだけである。

●一体いつまで椅子取りゲームをさせるつもりなのだ。しかも年々椅子の数が減っているではないか‥。

●実体経済に回るマネーの絶対量が不足している。そうである以上、焦げ付く人が出るのは当然であろう。これはイス取りゲームであり、個人の努力の範疇を超えた現象である。

●市場が「もっと」を要求するので自分ももっと上に行かねばと人は脅迫観念に駆られている。この市場の要求はすでに人間の平均的な能力を超えている。結果、過剰適応した一部の人間を除き、ほとんどが落ちこぼれとならざるをえない。半数以上が飽き飽きしたゲームをこれ以上続ける必要があるのか?

●児童虐待、動物虐待‥。様々な虐待がニュースになっているが、そのなかでも最大規模であり、かつ直接的間接的に他の虐待の根本原因にもなっている虐待が労働者虐待、すなわち市場による人間への虐待であることはなぜか多くの人が認めようとしない。

●昔の貪官汚吏は貧乏人の布団をひっぺがえして持ち去ったが、それでもそれは誰かに再利用させるためであった。しかし現代の税務署員は貧乏人からなけなしの金を奪い取った上、それを再利用することもせずただシュレッダーにかけるだけなのである。#国庫としての税金という欺瞞

●今不足しているのは労働力ではなくお金である。であるなら雇用され賃金をもらうより銀行にお金を借りる方が社会的に貢献度の高い行為といえるだろう。お金は銀行から借りないと生まれないからだ。またその意味で返済するのは反社会的な行為である。返済すればお金が社会から消えてしまうからだ。

●台頭するラジカルマーケット。永続的なオークションによって資源の最適配分を図るという考え方だ。たしかに空き家対策等には有効かもしれないが‥。究極の市場原理主義の世界では所有権という概念が無意味になる。

●仕事において、やりたいこと、やれること、儲かることの交わりが年々縮小していっているように思う。

●財務省は財政均衡論を盾にさらに貨幣流通量を減らそうとするし、福祉は機能不全を起こしているし、この国は一体どうなっているのだ。もはや自らの意思で自死に向かっているとしか思えない。

●市場原理と契約原理という相容れない原理が並立しているのが問題だ。市場原理ではフタを開けてみないと結果がわからないが、契約原理では結果がどうなろうと約束したことは履行せよ、と迫られる。労働者と資本家(銀行)はこの契約原理で守られている。その狭間で割を食うのは経営者のみ。

●現代の低レベルな社会ではしようもない商品を作った方が儲かる。

●これからは普通の人間ができる仕事といえば風俗かユーチューバーくらいしかなくなるだろう。

●ILOによれば強制労働とは「ある者が処罰の脅威の下に強要され、かつ、右の者が自ら任意に申し出たものではない一切の労務を指す」。ならば税金を払えというのは強制労働を課していることになるのでは? 少なくとも徴用工問題での韓国の理屈を借りれば当然そうなるだろう。謝罪と賠償を要求する!

●「完全雇用とは社会資源を最大限活用すること」という経済学の言説は一体何を意味するのだろうか? たとえばJ・ワットは蒸気機関を発明し、社会の生産力を格段に高めたわけだがその結果、失業者も増えた。もし完全雇用の維持が重要なのであれば蒸気機関はむしろ発明されないほうがよかったとなろう。

●完全雇用が社会の資源を「完全」に活用している、という考えは誤りである。たとえばアインシュタインが中学校の教師として、また西郷隆盛がサラリーマンとして一生を送ることは資源の有効活用というよりむしろ多大な損失というべきであろう。

●機械化が進んだ現代の労働はもはやそれほど苦痛なものとはいえないだろう。それどころかむしろ楽しい面も多々あるといってもよい。ただし周りにいるのが気持ちのいい人ばかりで各種ハラスメントがないという前提でだが。逆にいえば労働を苦痛にしているのは労働そのものではなく人であるということだ。

●今のシステムの元では働くことは社会を破壊することと同義語になってしまった。

●財政均衡論というのは要するに借金はするな、手持ちの金の範囲内で事業を行えといっているようなものである。しかしそれではどんなに能力のある企業家でも事業を成長させることは難しいだろう。国家も同じだ。財政均衡論のもとではどれほど潜在力のある国家でも成長できず、ジリ貧になってしまう。

●緊縮論者は、お金をバンバン刷ったら「円の信認ガー」とかいうが、お金を刷ることで国全体の供給力が保全されるかまたは向上したなら問題はないだろう。むしろ円の信認が低下するのは緊縮を進めた結果、国全体の供給力が損なわれた時だ。通貨を裏付けるのは畢竟その国の供給力である。

●税金の本質が通貨量の調整にあり、財源確保にあるのでないことにようやく多くの人が気づきはじめたようだ。喜ばしいことである。この勢いで貧困層への課税は基本的に全廃する方向へ持っていってほしい。左翼バラモンの支配下で冷酷な人間圧搾機と化してしまった行政を再び国民の手に取り戻すのだ。

●いまや市場競争のレベルは町内大会からオリンピックへとアップしている。しかし当たり前だが、オリンピックを戦える人材は限られている。町内大会ですら勝てなかったその他大多数がオリンピックに出場したところで勝てっこないのだよ。

●農業や製造業や小売はもちろん、弁護士や博士であっても食えない時代である。それでもなお働いて金を稼げとは一体どんな寝言だ?

●24時間365日、市場と直接対峙しなければならない自営業者にとっては食べることも眠ることも読書することもすべて「労働」である。それらの総和が市場における成果となるのだから。彼らに余暇などという概念はない。

●リモートワークの拡大によって気づいた人も多いと思うが、「労働」と「余暇」の区別はそれほど明確なものではない。唯一の違いはその行為が「市場」というフィルターを通したものであるかないかだけである。そんなあやふやな「労働」を「余暇」から聖別し、崇め奉ることにどれほどの意味があるのか?

●資本主義=右派VS社会主義=左派という的外れな対立軸はラジカルマーケットの台頭によって根底からひっくり返されることになるだろう。資本主義の行き着く先はラジカルマーケットにならざるをえないし、そしてそうなった暁には右派の主張する文化や伝統、モラルの保持など不可能になってしまうからだ。

●そもそもお金は使えばなくなるものではない。むしろ使えば使うほど増えるものである。したがって給付金はきちんと受け取り、きちんと使うことを義務づけるべきだ。溜め込むのは論外だが、きちんと使う限り、それは経済を回す上で役に立つのだから。

●基本的な衣食住のニーズを満たすための生産であれば、今の日本の技術力を持ってすればほぼ完全自動化することができる。そうなっていなかったのは単に必要に迫られなかったのと、人手による付加価値を加えないと利益が出ないという馬鹿げた考え方に社会全体が毒されていたからである。

●お金にならない労働は労働ではないのか? もしそうであれば政治や公共事業、哲学、一部の天才による芸術作品などは労働とはみなせないだろう。一方、お金になる労働は多くの場合、目先の欲望を満足させるだけのものであり、それは長い目でみれば人間の進化を阻むものでしかない。

●今ある労働のほとんどはその気にさえなれば今の技術で完全自動化できるはずだ。できないように見える複雑な作業も工夫次第で可能なはずだ。そうなっていないのは必要に迫られていないからである。このコロナウイルスが全産業のロボット化を後押しし、賃労働を根絶させてくれることを願う。

●貨幣改革はたしかに一筋縄ではいかない。だが失望することはない。我々にはすでに十分な生産力がある。必要なのは現状のマネーに代わる新たな仕組みだ。その実現可能性はブロックチェーンの登場とAIの進歩によってすでに射程距離内に入っている。現状のマネーシステムには安楽死してもらおう。

●400年にわたり世界を熱狂と混乱の渦に巻き込んできた金儲けというゲームがコロナ禍を機に終わりを迎えようとしている。ポストマネーゲーム時代のこれからはおそらくビジネスではなくボランティアやNPOによる「照一隅」的な実践に人生を捧げる人が増えるだろう。

●金儲けというゲームはもう終わった。これからは新しい、それもより人間らしいゲームが始まることだろう。

●今提案されているオルタナティブなマネーシステムはどれも一長一短あるし、突っ込もうと思えば突っ込みどころもある。しかし、ならば今のマネーシステムは完全無欠なのか、といえば当然そんなことはない。矛盾だらけなのをこの数百年、だましだましなんとか使いまわしてきたというのが現実だ。

●物価は必ず上昇せざるをえない。なぜならお金が生み出される時、必ず利子がついてくるし、そうである以上、利子分を含めて利益を回収するには最低でもその分を上乗せした価格を設定しなければならないからだ。現実的に物価が上昇しない側面があるのは、誰かが破産したからである。

●一律10万円。余裕のない人はほぼ税金支払いに消えるだろう。だからこそ余裕のある人ほど受け取って消費に回してほしい。そうでないと「効果がなかった」だのといわれてしまうから。

●貧困層からなけなしの金を税金として取り立てた政府はその金をどうするか? シュレッダーにかけるだけである。それが税金の本来の仕組みだからだ。そうして貧困層は絶望の中自死へと追いやられるのだ。公務員がやっているのは国民抹殺という仕事である。政府はもはや人間シュレッダーと化している。

●コロナ後には中小企業はほぼ全滅だし、社会のあり方も大きく変わるんだよ。だからといって新しい社会に対応した代わりのビジネスモデルなんぞそう簡単に生み出せるものじゃない。仮に立ち上げたとしてGAFAに太刀打ちできるのか? しかもその後、大企業も同じ道を辿ることになるんだぞ。

●収穫は、まず最初に種を蒔くことから始まる。蒔けば蒔くほど収穫は増えるが、蒔く分量をケチれば収穫高は頭打ちになる。財政規律論もこれと同じ。税収の範囲内で予算を組めばよほどのイノベーションでもない限り縮小再生産の悪循環に陥る。

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