戦前の「非国民」、現代の「ネトウヨ」という全体主義的レッテル貼り
今は、あらゆる「常識」がすさまじい勢いで破壊され、ゴミ箱に捨てられる時代である。もちろんなかにはおかしな常識もあるわけでそういうものは積極的に変えていくべきだろう。しかし問題なのは、そうでないもの、むしろ社会の維持にとってなくてはならない常識までも、きちんとその意義を検討されることなく一緒くたに破壊されつつあることだ。
しかも、それを守れ、破壊してはならない、というととどこからともなく、ありとあらゆる屁理屈が飛んできて袋叩きに遭ってしまうのだ。そしてその際、しばしば使われるのが「ネトウヨ」というレッテル貼りである。それはちょうど戦前、ちょっとでも左翼的な言動をとると「非国民」という非難の声が飛んできたのにも似ている。皮肉なのは今は罵る方の側がむしろ左翼思想の持ち主であるということだ。
現代は戦後、左翼がしつように非難してきた戦前と同じ窮屈な、ある種の全体主義国家と化している。それもかつて自由を至上の価値として叫び続けてきた左翼によってだ。すでに社会の中枢を乗っ取り、上級国民となった彼ら左翼バラモンが繰り出す巧みな詭弁術、すなわちあらゆるものを煙に巻くその屁理屈とともに自信たっぷりに高々と掲げる「自由」「平等」「多様性」という印籠の前にはあらゆる伝統と常識はひれ伏し、その正当性を明け渡さなければならないのである。
しかし、その結果、どうなるか? 火を見るより明らかなのは、そうした破壊の先にあるのは究極の虚無であろうということだ。そこにあるのは虚無主義という文化的焼け野原以外の何物でもないだろう。それは死の滝壺へと一直線に邁進するレミングの集団自殺にも似たおそるべき絶望的な光景である。