モデル無き時代をどう前向きに生き抜くか〜エリート官僚の問いに答うるの文
『不安な個人、立ちすくむ国家〜モデル無き時代をどう前向きに生き抜くか〜』
平成29年5月 次官・若手プロジェクト
http://www.meti.go.jp/committee/summary/eic0009/pdf/020_02_00.pdf
志しや良し。各論には異論もないことはないが、いまの日本社会に変革が必要であることは間違いないだろう。
「液状化する社会〜「権威への回帰」か「秩序ある自由」か〜」
なかでもポイントとなるのはこの「秩序ある自由」な社会をどう設計するかであろう。
個人的にはその基盤として有効なのが日本文明だと考えている。こういうと「権威への回帰」であると誤解する人もいるかもしれないが、そうではない。
権威というのは一神教的価値観にもとづくものである。あるひとつの理念を唯一絶対の価値としてその他の価値の存在を認めないのが一神教的世界観である。そのため歴史上、権威主義的な社会がもっとも発達を遂げたのは一神教を根底にもつ西洋キリスト教社会であった。ある意味、権威主義社会というのは西洋キリスト教文明の落とし子ともいえるだろう。
一方、日本文明の根底にあるのは、多神教的世界観である。八百万の神々が互いにその価値を認め合い、仲良く共存する、ある意味「民主的な」社会である。そこにあるのは「自己生成的な秩序を尊ぶ自律的かつ自由」な世界観である。
したがって、「秩序ある自由」な社会の基盤=OS(オペレーティングシステム)になりうるのは世界中を見回してみても日本文明をおいて他にない。もちろんそれは今では少々ホコリをかぶりすぎているかもしれない。しかし表面に堆積したホコリを払い、もう一度磨き直せば、それがまばゆい輝きを放つ可能性をもつ宝石の原石であることがわかるだろう。
そもそも「秩序ある自由」な社会とはいったいどのようなものか? それはかつて西洋人のアナキストが夢見た民衆による高度な自治が機能する理想社会である。すなわち無政府主義社会である。
「無為(無権力)にして為さざるなし」ー老子
じつのところ日本文明はある意味、究極の民主主義であるアナーキズムの東洋的形態としてすでに一定の完成をみているのだ。
その意味でも、これからの地球文明の基盤となるのはもしかしたら日本文明というOS(オペレーティングシステム)なのかもしれない‥。