奴隷労働を駆動させてきた物語の終焉

働きたくないというのは、奴隷労働はしたくないという正常な人間なら当然抱く至極真っ当な心情である。

生存を人質にされた状態で好きでもないことを安い賃金で無理やりやらされることは構造上の強要であり、事実上の奴隷労働なのだからーー。

そう認識できず「喜んでやります!」という方が異常なのだ。

しかし、これまでそうした奴隷労働が社会的に受け入れられてきたのはなぜなのか?

それはそれを支える「社会的物語」があったからだ。人は物語の中でならいかなる苦難も喜んで受け入れる。

それはたとえば戦場で戦う兵士のようなものだ。神の聖戦士としてイスラム国側で戦うか、民主主義の布教者として米帝の側で戦うかは、当人が信じる物語次第だ。

日本にもかつて物語があった。「立身出世」「(西洋に)追いつけ追い越せ」である。しかし、今の日本においてそのような古めかしい物語が機能する余地はもはやほとんどない。そればかりかその消滅と引き換えに露わになったのは、長い間、そうした物語を裏で操っていた資本主義という化け物の醜い姿である。

とくに日本において働くことに意味を見いだせない人が増えているのはそのせいなのだ。