会社員は現代の奴隷である
こういうと反発する人もいるかもしれないが、かつて世界を席巻した植民地主義というのは、ビジネスのひとつのスタイルであった。
それはライバル会社に資源を奪われないよう鉱山とその周辺の労働力を軍事力でもって独占するやりかたである。今でいう独占契約を結ぶのと一緒である。そこにあるのは、その契約が法律によるものか、軍事力によるものかだけの違いである。
当時はそれが当たり前だったし、それが「公平な競争」だと誰もが思っていた。というより、当時の植民地の人たちに法律観念がない以上、軍事力によってそうする以外なかったという事情もあるだろう。実際、そうしたやり方に疑問を持つ人は多くなかった。
たしかに今の価値観からすればとんでもないやりかたであっただろう。しかしそれを言うなら今の正社員もおかしいというべきではないのか。ひとつの会社とのみ全人格的な取引を強要される正社員は、ある意味、植民地奴隷にも等しいからだ。
そのことはフリーランサーと比較するとよくわかる。「独立」したフリーランサーは、複数の会社と「自由貿易」をすることができるが、正社員は自分が所属する会社のもとでこき使われるだけだ。社畜というのはそのことを薄々感づいているからこそ出てきた自虐的な言葉であろう。
後世の歴史教科書には、おそらくこう記されるはずだ。20世紀の会社員は名前が変わっただけで、本質的には19世紀の植民地奴隷と何も変わらないものであった、と。
ちなみに植民地奴隷もまた今の会社員同様、一定レベルの生活が保証されていたことを忘れてはならない。それどころかその多くが妻をめとり、子供を作り、家族をつくることさえできたのである。もし奴隷が子孫を残せなかったなら、何世代にもわたって奴隷制度を維持することなどできるはずがなかっただろう。
また当時の奴隷の間でもその待遇の差によって他の奴隷を見下したり、逆にうらやんだりするようなケースは普通にあっただろう。もちろんそこにはある種のヒエラルキーもあり、奴隷の中でも高級奴隷と低級奴隷に分かれ、互いにいがみ合ったりしたこともあったはずだ。なぜこうしたケースが現在あまり知られていないのかといえば、それは、奴隷制度が絶対的な悪であったとする今の歴史観からすると不都合な事実であるから隠蔽されているにすぎない。