じわじわと、そして着実に近づく大失業時代
上の記事はAIの導入で仕事を失った銀行員の話である。
すでに30年ほど前、ジュレミー・リフキンの『大失業時代』を読み、うなったことがある自分にはこうなることは想定内であったが、それでもいよいよ始まったな、という感を深くするものであった。
これまではモノ不足が前提の経済であった。モノの絶対量が不足しているから、国民全員が働くことは当然の道理であった。全員が懸命に働いてかろうじて全員が食っていける状態であれば、そのうち一人でも怠ければその分、必ず誰かが欠乏に悩むことになる。
そしてその欠乏に悩むのが怠けた本人でなく、真面目に働いた他の誰かだった場合、それは不公平というものである。これは社会的に許されるものではない。怠けた人は社会的な制裁を受けるべきである。働かざる者食うべからずといわれるようになったのは、こういうところからであろう。
しかし、現代社会はモノ不足ではなく、むしろモノ余りの時代である。このような時代にあっては、真面目に働く者、もしくは人より効率よく働く人間は社会にとって厄介者となる。なぜなら、その分、他の誰かの労働を奪うことになるからだ。労働を奪うというのは、失業を意味する。一人の優秀な人材は一人の並以下の人材を職場から排除してしまうのだ。そして排除された人は路頭に迷い、やがて餓死せざるをえなくなる。
今の経済学は、モノ不足の時代に生まれたものである。モノ不足を前提に組み立てられた理論である。その理論体系は当然のことながらモノ余りの現代にはあてはまらない。にもかかわらず現代の社会制度がモノ不足を前提にした古くさい経済学をもとに構築されているところに私たちの不幸がある。
今の私たちに必要なのはモノ不足を前提とした欠乏の経済学ではなく、モノ余りを前提とした豊穣の経済学なのである。