ベーシックインカムは経済学ばかりでなく人類学を含む学際的な視点から論じるべし

ベーシックインカムをめぐっては現在、世界中で活発な議論が展開されている。議論が盛り上がること自体にはもちろん大賛成なのだが、その一方で気になることもある。一部に経済学的視点からのみその是非を論じる傾向がみられることだ。

私は、ベーシックインカムを経済学的観点からのみとらえる議論は間違っていると思う。

理由は単純だ。ベーシックインカムは経済だけの問題ではないからだ。そのため経済学的観点からのみそれを論じるのは木を見て森を見ずの愚を犯してしまうおそれがある。

そもそも経済は社会制度の一部でしかない。経済人類学者カール・ポランニーがいうように経済(市場)というものは長らく、社会(制度)の一部としてのみ存在してきた。経済は社会に「埋め込まれたもの」であったのだ。少なくとも近代以前の社会においてはすべてそうであった。

しかし、経済が絶対的な権力をふるう現代の高度な資本主義社会においては必ずしもそうではない。現代ではそれは逆転しており、むしろ社会が経済の中に埋め込まれてしまっている状態だ。ここにあるのは経済が社会に奉仕するのではなく、社会が経済に奉仕するという倒錯した現象である。

別の見方をすれば、現代社会では本来そのしもべであるべき経済が社会全体に対する主人のごとく、それも暴君のごとくふるまっているといえる。だからこそ現代社会にはこれほど多くの問題が生じているのだ。

じつのところベーシックインカムが提案された背景のひとつにはそうしたことに対する危機意識がある。暴君となってしまった経済を再び社会に「埋め戻し」、コントロール可能にするための方策のひとつとして提示されたのがベーシックインカムだったのである。

ベーシックインカムを経済学的視点からのみとらえる議論が間違いだというのはそういう理由からである。もちろん同じことは経済学以外の学問にもいえるだろう。特定の視点からのみ論じることは同じ過ちを犯してしまうおそれがあるからだ。

したがって、ベーシックインカムについてはそれを経済学へのみ還元するのではなく、人類学や社会学、心理学、倫理学、場合によっては宗教学、さらには経営学、そしてもちろん政治学など関連する学問との連携をはかりながらより幅広い視点から議論すべきである。ベーシックインカムとはそこで意味のある人生を生きようとするわれわれの社会を、その根本をなす制度設計をもう一度見直そうという人類史的な試みなのだから‥。