税とは何か? 公共サービスだけがなぜ税金で「生産」されるのか? 

民間企業は通常、銀行から資金を借りて財やサービスを生産する。しかし役所は税金というあらかじめ国民から集めたお金をもとに公共サービスを生産する。

役所だけなぜそのような形をとるのだろうか? 需要者からあらかじめ代金を受け取って財を生産する民間企業がいったいどれだけあるだろうか?

民間企業の場合、事後に需要者に支払ってもらうが役所は事前に支払ってもらうだけであり、両者は結局同じであるという人もいる。だが、それは本当に同じことなのだろうか?

そこには決定的な違いがある。市中に出回るお金の量だ。

民間企業が銀行からお金を借りるということは市中にお金が増えることを意味する。これは銀行がもつ信用創造機能の必然的な結果である。

銀行がお金を貸すというのは、そこに新しいお金が生まれるということだ。サラ金などのノンバンクが手元にあるお金を貸すのとはわけが違う。それはたんに右から左へお金を移動させるだけだが、銀行の場合、文字通り無から有を生み出すのだ。これが信用創造という銀行だけがもつ機能である。だからこそ銀行は許可制なのだ。

しかし、新しい財が生産されるのに比例して市中に出回るお金の量も増えるのだからこれはある意味、健全な姿である。

一方、公共サービスの場合、新しい財が生産されても、市中に出回るお金の量は増えない。銀行が介在しない以上、信用創造が起こらないのだから当然である。しかしお金が増えないとなれば、その代価はいったいどこから持ってくるのか?

当然、今あるお金の中からそれに充てるしかないだろう。これがいわゆる税金である。しかし、これは必然的に民業圧迫となってしまう。本来であれば民間企業が得ていたであろうお金が役所に回ってしまうのだから当然の話である。

ここにあるのは公共サービスの分だけお金が足りなくなるという現実である。民間サービスに対応する分のお金は足りても、公共サービスに対応する分のお金は必ず不足してしまうのだ。

これは別の言葉でいえばデフレである。つまり公共サービスは必然的にデフレを生み出すのだ。すなわち税金がデフレを生み出すのだ。

デフレが社会にとって有害であることはいまさらいうまでもない。

であれば国や地方公共団体もまた税金などという強奪的な仕組みに頼らず、銀行から資金を借りるなどしてそれに見合う分量のお金を生み出した上で「公共サービス」という財を社会に提供すべきではないのだろうか?

もし役所が銀行を通して資金を調達するのが技術的、法的に難しいというのであれば、公共サービスの生産と同時にその価値に見合う分量のお金を日銀に頼んで刷ってもらい、それを財源に充てればよいだけではないのか?

それとも役所が生み出す公共サービスは、民間企業が生み出す財やサービスとは本質的に異なるとでもいうのだろうか?

もしそうであれば公共サービスの民営化というのがいったいどこまで可能なのか、あるいは不可能なのか、またそもそも公共サービスとはいったい何なのか、そのあたりをもっと深く掘り下げた議論が必要なのではないだろうか。

現行の税は強奪 ダグラスの社会信用論→http://rothschild.ehoh.net/material/41_08.html
納税の義務の裏に隠されたカラクリ