桂春蝶発言から読み解く日本の貧困問題の特殊性

 
落語家の桂春蝶のツイッターでの発言をきっかけに日本の貧困問題に再び注目が集まっている。同氏への直接的な論評は控えるがこの件に関して私が言いたいのは、日本の貧困問題は世界でも特殊なケースであるということだ。何が特殊なのか? ひとつはそこにスキマがないことである。

ここでいうスキマというのは制度と制度の間にある空白である。制度の枠内に収まらない部分を埋める「アソビ」の部分である。具体的には家庭や親戚などの血縁共同体や友人、知人、さらに隣近所などの地縁共同体である。さらには誰の所有でもない山や森などであったりもする。要は、そこに行けばとりあえず最低限命がつなげるような「逃げ場」である。社会学的な用語でいえばコモンズである。あるいは経済統計に含まれない地下経済、いわゆるインフォーマルセクターをここに含めてもよいかもしれない。


そうしたスキマは貧困者を養い、ダメージを癒し、さらに元気を回復させてくれる場所でもある。そうして元気を回復した人は社会へ戻り再びチャレンジするのだ。一般的にいって途上国にはそうしたスキマがたくさんある。だからスキマの多い途上国の貧困が一部を除き、どこか「おおらか」なのはそのせいだ。失敗しても逃げ場があるし、一度や二度の失敗は致命傷にはならない。


一方、日本の場合、そうしたスキマはほとんどない。もちろんかつてはあったのだが、今ではほとんどなくなりかけている。それはビルがすきまなく林立する都会の光景にも似ている。近代化が進み、便利になった反面、子供たちが自由に遊べる空き地はもはやどこにもないのだ。

一般的にいって先進国にそうしたスキマは少ない。しかし、その分、貧困対策のためのインフラはきちんと整備されているのが普通だ。ところが、これがもうひとつの特徴なのだが、日本の場合、先進国でありながらそうした貧困のためのインフラは穴だらけである。他の部分は先進国ではあるのだが、貧困対策の部分だけいまだ途上国並みなのだ。かといって途上国のようなスキマもないという中途半端な状態にあるのが日本なのである。


そうしたスキマのない日本の場合、一度貧困に陥ったものが頼れるのは国の制度しかない。しかし日本の場合、今言ったようにそれは穴だらけである。実際、そうした制度は自立を助けるどころか、むしろ自立を阻むようなお粗末なものであることがしばしばだ。そのため、スキマのない日本における貧困というのは他に逃げ場のない、そして一度落ちたら二度と這い上がれない地獄にも等しい場所なのだ。


日本の貧困問題の特殊性はここにある。この特殊性に気づかないかぎり、日本の貧困問題の深刻さは見えてこないだろう。日本には貧困問題などないかのように考える桂春蝶のような人が出てくるのはこの特殊性が一般の人の目にはなかなか見えにくいからであろう。