諦念という神 希望という悪魔

宗教はもともと変えられない運命や宿命に対して諦めることを教えるのが本義であった。目の前の現実をいかに受け入れ、それを肥やしによりよく生きるための教えであり、技術であった。

しかし人の欲望や願いというものは押さえ難いものである。死ぬべき人をなんとか助けてくれと泣いてすがる信者をあわれんだところから宗教は横道へとそれ始めた。呪術の誕生である。

それが体系化され、密教が生まれた。それは西洋へとわたり、魔術という名で広まった。

科学もまたそこから誕生した。科学は人々の病を直し、その平均寿命を劇的に延ばすことに成功した。さらに蒸気機関にはじまり、ロケットエンジン、そしてコンピュータにいたるまでそれこそ魔法のような自在力を人類に授けてくれた。

人々は科学をもってすれば、不可能はないと信じるようになった。

そしていつしか、それまで宿命だとして受け入れていたものも諦める必要はないと考えるようになった。

しかし、いくら科学が発達しようと変えられないものはいまも多くあるし、これからもなくなることはないだろう。

その変えられない現実を前に、諦めるということを忘れた現代人はいたずらにそれを変えようとあがき続けている。あたかもあがくことが正しいことであり、美徳ででもあるかのように‥。

「あきらめるな!」「希望を持て!」という一見感動的な台詞が映画やドラマに数多く出てくるのもそのせいだ。

現代人はたとえそれが悪あがきであってもそれに希望という言葉を与え、与えられた宿命に抗うことを良しとしている。

しかし、変えられないものはやはり変えられないーー。それが現実だ。その現実を受け入れた時、神が顕現し、安心立命の境地へと誘われるのだろう。

そう思うのだが、現代人はいまみたようにいつまでも「希望」にすがりつき、いたずらに抵抗を続けている。それではいつまで経っても不満が増大するばかりである。ましてや、神という真理がその人の心の中に顕現することもないであろう。

現代人は、諦めることは「悪」であり、諦めないこと、すなわち「希望」こそが正しいと信じている。

しかし、それは本当に正しいことなのだろうか?

もしかしたら「希望」こそが悪魔の教えなのではないのだろうか?