唯物論的世界観と生きる意味

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物質としての肉体を認識するのは心である。したがって、そこには肉体と心というふたつの世界がある。哲学的にいえば、物質界と精神界である。

もし心というものがなければ、存在するのは物質界のみである。物質界は何の意味も持たない無機質な世界である。時計仕掛けの精密宇宙である。死の世界である。その死の世界を生の世界に変えるのは、精神界である。心である。その認識力である。

認識力とは何か? シャーマニズムや精神医学の研究成果が示すようにそこには万人に共通の認識パターンがある。そこに見られるのは「死と再生」をテーマとする一種の物語ともいえるドラマ仕立ての認識パターンである。

おそらくそのような認識パターンが人間の脳に備わっているからこそ、人は文学や音楽に感動するのであろう。万物に意味が生まれるのも、そうした物語が背景に存在するからである。だからこそ生きる意味もそこから生まれるのだろう。すなわち生きる意味とは何かと問えば、答えは物語である。生とは物語なのだ。

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心という構造物は物質としての肉体が作り上げたものにすぎないのかもしれない。しかし、その物質としての肉体を認識し、意味付けするのはその心である。物質が生み出した心が物質を逆照射することで、物質世界にはじめて意味が生まれるのだ。

人は物語なしに意味を見いだすことはできない。そして人は意味なしに生きることはできないという。では、共産主義やナチズムのような唯物論的世界観を強要される全体主義社会において、人はどのような物語をもとに生活を営むのだろうか?

共産主義やナチズムのような唯物論的世界観のもとでは、宗教は迷妄として否定される。しかし、物語はある種の宗教である。いや宗教は物語であるというべきか。

宗教は「死と再生」という物語をベースにした脳の認識構造に基づく上位バージョンの「大きな物語」といってもよいだろう。では、すべての物語が、すなわち人間の脳に本来備わったそうした認識パターンそのものが否定される唯物論的世界観のもとで、人はどのような方法で「生きる意味」を見いだせるのだろうか?

そこにあるのは答えに永遠にたどりつけない自家撞着の構造でしかないように思える。

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