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ダグラスの社会信用論学習メモーー常識をひっくり返すいくつかの前提

   

今、C・H・ダグラスの社会信用論を調べている。なかなか面白そうな理論なのだが、難解すぎて私のへっぽこ頭脳ではどこまで理解が及ぶかは不明だ。しかし、まあとりあえず努力だけはしてみようと思う。

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ということで、以下、メモ代わりに思いついたことをだらだらと記しておく。

まず、ダグラス理論を理解する上で重要なのは次のふたつの前提だ。

ひとつ目は、「生産量と貨幣量」は等しくなければならないということである。貨幣量という言葉が経済学的に正確なのかどうかはわからないので、ここでは単純に生産物の価格に等しい貨幣額と考えていただきたい。

なぜ等しくなければならないのか? 両者のバランスが崩れるとインフレ、あるいはデフレが発生するからだ。

主流派の経済学も認めている「三面等価の原則」を思い出してほしい。すなわち国内総生産であるGDPは、生産面からみても、所得面からみても、また支出面からみても同じ価になるというマクロ経済学の大原則である。等式で表せば、国民総生産=国民総所得=国民総支出である。これと同様、生産量と貨幣量も(常にではないにしろ)、原則として等しくなければならないのである。

もうひとつ重要な前提がある。価値の裏付けは生産力であることだ。一般に価値の裏付けとなるのは、金(ゴールド)とされている。しかしこれはどうみても間違った考え方だ。たとえば、砂漠に一人放り出されたケースを考えてみてほしい。その時、ゴールドがどれだけの価値を持つだろうか。食べ物になるわけではない。雨露をしのぐ材料になるわけでもない。そんなものは砂漠という極限状況においてはなんの役にも立たないだろう。

一方、生産力があればどうか。ここでいう生産力というのは自然に働きかける知識とそのためのなんらかの道具という意味だ。それさえあれば砂漠であっても食べ物が得られるだろうし、暑さや寒さに苦しむこともなくなるだろう。あるいはラクダや馬を捕まえたり、またそれをもとに馬車を作って、砂漠を抜け出すことも可能だろう。場合によってはグライダーのような空飛ぶ乗り物さえつくれるかもしれない。

このように価値の裏付けとなるものは、ゴールドではなく生産力であることは常識的に考えれば誰しもわかるはずだ。にもかかわらず、主流派の経済学者は価値の裏付けはゴールドであるといって譲らない。そこにはなにか別の理由でもあるのだろうか?

これをもう少し別の面から考えてみよう。

単純化するため、国家を家族にたとえてみよう。山奥で自給自足をしている家族を一つの国家とみなすのだ。

この家族にとって大事なことはなにか。それは家族全員が健康で働けることだろう。働くことができれば、畑で食料が作れるし、川で魚を採ることもできる。樹皮や綿花を集めて布を織り、服を作ることだってできるだろう。つまりこの家族にとっての価値は家族の生産力ということになる。

家族が働くことができれば、畑を広げることも、家屋を増築することも簡単にできる。

さてここで食料を増産するため畑を広げたいと家族が考えたとしよう。あるいは雨漏りがするから屋根を修繕しようということでもよい。これは家族にしてみれば一種の公共事業である。

しかしこの家族にとって公共事業を行うのにお金は必要ない。もちろんゴールドなども不要だ。

たんに男たちがその気になればいいだけの話だ。その気にさえなれば畑などいくらでも広げられるし、屋根も直せるだろう。

ここまではよいだろうか?

しかし、もしここでこの家族が「俺たちにとって一番大事なのはゴールドだ」と言い出したとしたらどうだろうか?

仮に家屋が雨漏りし始めたから屋根を修繕しようとなった場合、大工仕事をする男たちが「ゴールドがもらえないのならやれないね」などと言い出したとしたら‥。

女たちが「終わったらごちそうをたらふく食べさせてあげるからお願い」といっても男たちが「ゴールドがなきゃいやだね」といって聞かなかったら‥。

さて、これを現代の国家にあてはめてみよう。公共事業として高速道路を作ることを想定する。

国内にある道路会社やその他関連会社の能力を集めれば、高速道路を造ることなどたやすいことだ。そのための材料も技術も労働力もすでに十分にある。

であれば、それらの会社に造ってもらえばいいだろう、と思うところだが、現代の国家ではそうもいかない。「ゴールド」がないと誰も動かないのがこの経済の仕組みだからだ。

先立つものであるゴールドがない限り、いくら国民全員がそれを望んでいようと、またその十分な能力があったとしても高速道路を作ることは永遠にできないのだ。

*ここでは財政政策としての借金のことは考えない。

つまり、国全体としてその能力があるにもかかわらず、国民全員が貧しいままでいなければならないのだ。貧困に甘んじなければならないのだ。他のすべての条件はそろっているのにただひとつ、「ゴールド」がないために‥。

これはさきほどの家族の例と同じだ。

可哀想な家族は雨漏りのするあばら屋で不便な暮らしを強いられるだろう。その必要はないし、そのような状況を改善する能力があるにもかかわらず、である。同様にその国の国民も高速道路のない不便な生活を強いられるだろう。その必要はないし、それを作って不便さを解消する能力があるにもかかわらず、である。

たしかに家族と国家ではその成員間の信頼度が異なるから単純に同じものとみなすわけにはいかないかもしれない。しかし、生産可能かどうかという点だけでみれば屋根の修繕作業、あるいは高速道路建設といった追加的な作業を行う能力があるのは両者とも同じである。つまり、その気にさえなれば両者ともにその成員を満足させるだけの十分な能力があるのだ。

ただゴールドという、いざという時、なんの役にも立たないものがないがために、それができないという摩訶不思議な状況に陥ってしまうのが現在の経済システムなのである。

他のすべての条件がそろっているのに、唯一それがないがため、よりよい未来をつくることも明日への希望も持てないゴールドとは、お金とはいったいなんなのであろうか?

こうしてみると、今の経済システムがいかにおかしなものであるかが見えてくるのではないだろうか?

次回、また別の視点から現在の経済システムの矛盾に斬り込んでいこうと思う。

 

P.S.

第三の前提

国民は国が有史以来積み重ねてきた知識やノウハウ、発明、発見といった真の資本の共同所有者である。

資本とは何か? 本当の資本はお金ではない。それはもともと誰のものでもない資源であり、古代から多くの人が関わってきた発明や発見、ようするに固有の文化をふくむ言語や文字、知識などの総体である。それらは人類の共有財産である。そうした資本から生み出された利潤はだからこそ万人に配当されるべきである。現在は、一部の資本家がその権利を主張しているが、それらの「資本」を独占できる個人は本来どこにもいないのだ。

われわれ全員が生まれながらにして巨大な生産力をもつ国家という大企業の株主なのである。つまりわれわれ全員が生まれながらにしてこの国家の配当を受ける権利をもつ資本家なのだ。

 

税金も今のような税金は不要になる。

民間企業が生み出すのは、民間サービス、役所が生み出すのは公共サービス。どちらも同じ生産である。ダグラス理論によれば、すべての追加的な生産は追加的な信用(お金)によって賄われる。公共サービスも同じだ。民間サービスがそうであるように公共サービスもまたその信用は「社会信用局」からの追加的な融資によって賄われる。国民から徴収する税金によってではない。

しかし、公共サービスを利用する際は当然、利用料を払わなければならない。これはいまの税金と同じではないのか?

大きな違いがある。単純化していえば、こういうことだ。まず追加的な公共サービスに対してはその総額に等しい追加的な国民配当が国民に対してなされる。そして国民は公共サービスを利用するにあたって、その利用料を支払うのだ。すなわち国民は追加的に配当されたのと同じ金額をそっくりそのまま「公共サービスの利用料(=税金)として役所に支払うという形になる。当然ながらこの場合、新たに受け取ったものをそのまま渡すだけなのだから、差し引きゼロである。つまり国民の懐は少しも痛まないということである。

↓以下、元サイトの中でわかりやすい部分があったので、長いがそのまま引用する。

http://rothschild.ehoh.net/material/41_08.html

欠けているもの

国民の現世での必要性を満足するためのもので、我が国において不足しているものがあるのか? 誰もが満腹になれるだけの食料がないのか? 靴や衣類は不足しているのか? 必要なだけ作ることができないのか? 鉄道や他の輸送手段が不足しているのか? 全家族のために良い家を作るための木材や石が不足しているのか? 建設業者、製造業者、あるいは他の労働者が不足しているのか? 機械が不足しているのか?
いいえ、我々はこれら全てをたっぷり持っている。小売業者は、需要を満たすのに十分な商品を手に入れられないと、決して不平を言っていない。穀物倉庫ははち切れんばかりである。仕事を求めている強壮な男達が大勢いる。休止中の機械も多数ある。
にもかかわらず、大勢が苦しんでいる。商品が家庭へ辿り着くための道を見つけていないだけである。
国で生産されるものが国民の家庭に辿り着かない。売り場に並べられたままで、国民のテーブルの上に現れない。
母親は、ウインドーショッピングし、新聞で商品の広告を読み、ラジオで良い製品の説明を聴き、あるいは全ての種類の夥しいセールスマンの売り口上を聴くだけに過ぎず、子供達を食べさせられず、靴や衣服を与えられない。
欠けているものは、これらの商品に手を伸ばすことを可能にする有効な手段である。それらを盗むことは出来ない。それらを手に入れるためには、それらの対価を払わねばならず、お金が必要である。
我が国には沢山の良い物があるけれども、これらの商品を必要とする多くの個人および家族は、それらを所有する権利、それらを手に入れる許可を欠いている。
お金以外に欠けているものがあるか? 製品を売り場から家庭へ移動させるための購買力以外に欠けているものがあるか?

満杯の商品保管庫、製造業者の苦難。
商品保管庫が満杯なのに、
何百万もの人々が死ぬほど飢えている。
その原因:悪い通貨システム

お金と富

これは、お金自体が富ではないという意味である。お金は現世の必要性を満足できるこの世の物ではない。
お金を食べて生命を維持できない。衣類を身に着けるために、ドル紙幣を縫い合わせて、衣服やストッキングを作ることができない。お金をベッド代わりには出来ない。患部にお金を貼っても病気は治らない。頭にお金をかぶっても教育できない。
お金は本当の富ではない。本当の富は人間の必要性を満たす全ての有益なものから成る。
パン、肉、魚、木綿、木材、石炭、良い道路上の車、病人を訪問診療する医者、科学知識―これらが本当の富である。
しかし、現代世界では、一人の人間が全てのものを生産する訳ではない。人々はお互いから買わねばならない。お金は売ったものに対するお返しを得る権利の象徴・標しである。別の人から欲しいものをお返しに得る権利の象徴である。
富は物であり、お金はその物の象徴である。その象徴は物を反映すべきである。
もし、国に沢山の商品があるならば、それを消費できるだけの十分なお金があるべきである。人々と商品が多ければ多いほど、循環するお金も多く必要である。そうでなければ、全ては止まってしまう。
今日、欠けているのは正にこのバランスである。応用科学、新発見、完璧な機器設備の御蔭で、望み通り沢山の商品が生産できる。失業している人々さえ多数居るが、これは商品をもっと生産できる潜在力の存在を意味している。無益で有害でさえある職業も存在している。目的が破壊だけだという生産活動がある。
お金は人と人の間での商品移動を可能にするために創造された。それなのに何故、流れ作業における商品の流れと同じ手段で、商品を人々の手に届ける方法が見付からないのであろうか?

お金はどこかで始まる

神を除いて、全てのものには始まりがある。お金は神ではないが故に、それには始まりがある。お金はどこかで始まっている。
人は、食料、衣類、靴、本のような有益な日用品の出発点を知っている。労働者、機械設備、それらに加えて天然資源が、我々が必要とす富・商品を生産するが、それらは不足していない。
しかしそれでは、お金の出発点はどこか? 欠けていない商品を買うために欠けているお金の出発点は?
それを現実には思い描いていないけれども、我々の心の中に存在し続ける第一の考えは、一定量のお金が存在し、その量は変わり得ないということである。あたかも太陽や雨や気候のように。この考えは全く間違っている。お金があるのは、どこかで作られたからである。もし、足りないとしたら、それを作る人々が十分作っていないということである。
また、お金の出発点についての別のよく見られる考えは、政府がそれを作っているということである。これも正しくない。今日の政府はお金を作っておらず、それが不足していることについて絶えず不満を抱いている。もし、政府がお金の源泉ならば、お金が足らないことを前にして10年間もぼさっとして来たことになるであろう。(そして、たとえばカナダにおいて、5,000億$もの国の負債は発生していないであろう。) 政府はお金を取ったり借りたりするが、お金は作らない。
さて、お金はどこからやって来て、どこで消えるか説明しよう。お金の生死を支配する者達はお金の量も規制している。彼らが多くのお金を作り、ほとんど消滅させないならば、お金はより多くある。お金の消滅速度が生成速度よりも速ければ、お金の量は減少する。
お金が欠けている国における生活水準は、生産される商品の量で規制されるのではなく、それらの商品を買うために費やされるお金の量で規制される。それ故、お金の量を支配する者達は生活水準を統制する。“お金と信用を支配する者達が我々の人生の支配者になった・・・・誰も彼らの意志に逆らって生きようとする勇気がない”(教皇ピウス11世、回勅書状クァドラジェジモ・アンノ)

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2種類のお金

お金は払うため、買うために奉仕するもので、商品やサービスの交換のために受け取られるものである。
お金の原材料が何かは重要ではない。過去において、お金は、時には、貝殻、革、木、鉄、銀、金、銅、紙などであった。
カナダでは現在2種類のお金がある。一つはポケットマネーと呼ぶもので、金属または紙製である。もう一つはブックマネーと呼ぶもので、帳簿の数値でなっている。ポケットマネーは重要でなく、ブックマネーが最重要である。
ブックマネーは銀行口座である。ビジネスは銀行口座を介して行われる。ポケットマネーが循環するかどうかはビジネスの状態に依存する。しかし、ビジネスはポケットマネーに依存しない。ビジネスはビジネスマンの銀行口座に依存し続ける。
銀行口座によって、人は貨幣や紙幣を使うことなしに、支払ったり購入したりする。人は数値によって買う訳である。
私が銀行口座に4万$持っていると想定しよう。私は1万$の車を買う。私はそれを小切手で買う。自動車販売人はそれに裏書して、彼の取引先銀行に預ける。
そして、銀行家は2つの口座に変更を加える。先ず、自動車販売人の口座において1万$増やし、次に私の口座において1万$減らす。自動車販売人の口座は50万$だったので、今や51万$と記録されている。私の銀行口座は4万$だったので、今や3万$である。
紙幣は、この取引のため国内で移動しなかった。私は自動車販売人に数値を与えただけで、数値で支払った訳である。全てのビジネスの90%以上がこのように行われる。それは、ブックマネー、すなわち数値で作られたお金であり、それは現代のお金である。それは最も豊富なお金であり、その量は紙幣や貨幣の10倍である。それは他方に翼を与えるので、上位のお金である。それは、誰も盗むことができない最も安全な種類のお金である。

貯蓄と借用

他のタイプのお金と同様、ブックマネーには出発点がある。ブックマネーは銀行口座なので、それは銀行口座が開設されたときに存在するようになる。それに伴って、どこかでお金が減少したり、他の銀行口座や誰かのポケットの中でお金が減少することはない。
銀行口座における額は二通りで増加され得る。貯蓄と借用の二通りである。他の方法もあるが、それらは借用として分類され得る。
貯蓄口座はお金の変容である。私がいくらかのポケットマネーを銀行家のところへ持っていくと、彼は私の口座をその分だけ増やす。私は最早そのポケットマネーを持っていない。私は自由に使用できるブックマネーを持っている。私は私の口座のブックマネーを減らすことによって、ポケットマネーを取り戻すことができる。それはお金の単なる変容である。
しかし、どのようにしてお金が存在するようになるかを理解しようと努めているので、お金の単なる変容である貯蓄口座はここでは興味がない。
借用(融資)口座は銀行家によって借り手に貸し出す口座である。私がビジネスマンであるとしよう。私は新しい工場を建てたい。私が必要とする全てはお金である。私は銀行に行き、担保の下に10万$を借りる。銀行家は私に利子付きで返済するという約束状に署名させる。それから彼は私に10万$貸し出す。
彼は10万$を紙幣で私に手渡すであろうか? 私はそれを望まない。第一に危険である。更にまた、私は小切手という媒介を用いて広く分散した異なる場所で物を買うビジネスマンである。私が欲するものは、私がビジネスを行うのを容易にしてくれるであろう10万$の銀行口座である。
したがって、銀行家は私に10万$の口座を貸すでしょう。彼は、私があたかもその銀行にその金額を持ち込んだかのように、私の口座に10万$を振り込むであろう。しかし、私はそれを持って来なかった。それを手に入れに来たのである。
それは私が開いた貯蓄口座なのか? それは、私のために銀行家自体が作った借用口座である。

お金の創造者

この10万$の口座は私が作ったものではなく、銀行家が作ったものである。彼はどのようにそれをしたのか? 銀行家が私に10万$を貸したとき、銀行のお金は減ったのだろうか? さて、銀行家に訊いてみよう。
-銀行家さん、私に10万$貸したあと、金庫のお金は減りましたか?
-金庫内に立ち入らなかったです。
-他の人々の口座が減額しましたか?
-全く元のままです。
-それなら、何が銀行内で減ったのですか?
-何も減っていません。
-けれども、私の口座は増加しました。あなたが私に貸したお金はどこから来たのでしょうか?
-それはどこからも来ていません。
-私が銀行に来たとき、それはどこにあったのですか?
-それは存在しませんでした。
-そしてそれが私の口座にあるのだから、それは存在します。だから、それは創造されたと言って良いですね。
-確かにその通りです。
-誰がそれをどのように創造したのですか?
-私が私のペンと一滴のインクでしました。あなたの要求で、私があなたの借用口座に10万$と記入したときです。
-それならあなたがお金を創造したのですか?
-銀行は、数値だけのお金であるブックマネーを創造します。それは、ビジネスを絶えず活動させることによって他のタイプのお金を循環させる現代のお金です。
銀行家は、借り手、個人、あるいは政府に口座を貸すときに、ブックマネーすなわち帳簿上のお金を製造する。私が銀行を去るとき、この国には新しい小切手の源泉が存在するであろう。そして、それは以前には存在しなかったものである。国内の全口座の総額は10万$増加した。この新しいお金によって、私は労働者に支払いをし、原材料や機器設備を購入する。つまり私の新しい工場を建てる。そのとき、誰がお金を創造するのか?-銀行家達だ!

お金の破壊者

銀行家が、そして銀行家だけがこの種のお金、すなわち、手書きのお金、あるいは銀行のお金と称され、ビジネスを活性化させ続けるお金を作る。しかし、彼らは彼らが創造したお金を寄付しない。彼らはそれを貸す。彼らはそれをある期間だけ貸し、そのあと彼らに戻されなければならない。銀行家は返済されねばならない。
銀行家は彼らが創造したこのお金に対して利子を請求する。私の場合、銀行家は多分一度に1万$の利子を要求するであろう。私が1年後に10万$返済するという約束状に署名したら、銀行家は融資からその利子を差し引いて、私の口座には9万$を振り込むであろう。
私の工場を建てるにおいて、私は労働者に支払い、物を買い、そのようにして国中に私の9万$の口座預金をばら撒くであろう。
しかし、1年以内に、私は私の商品を売って利益を上げて、少なくとも10万$以上を口座に振り込まなければならない。
その年の終わりに、私は10万$の小切手を切って、その借金を返済するであろう。銀行家はその時、私の口座の借り方に10万$を記入し、それによって私が私の商品を売ることで国中から引き出したその10万$を私から取ります。彼はこのお金を誰の口座にも振り込みません。誰もこの10万$に対して小切手を切ることができないでしょう。それは死んだお金です。
借り入れはお金を生み出す。返済はそのお金を消滅させる。銀行家は貸し付けるときにお金を存在するようにする。銀行家はお金が返済されたときにお金を墓に送る。それ故、銀行家はお金の破壊者でもある。
そして、そのシステムでは返済額は元本より多くなる。死ぬ数値は誕生する数値を上回っている。破壊は創造を超えている。
これは不可能なように思え、総合的に不可能である。もし、私が返済に成功したならば、誰か他の人が破産するに違いない。なぜならば、我々は全体として、あった以上のお金を返済することができないからである。銀行家は元本しか創造しない。誰も利子を補うために必要なものを創造しない。なぜなら、銀行家以外には誰もお金を創造しないからである。そしてそれにも関わらず、銀行家は元本と利子の両方を請求する。そのようなシステムは、不断無く増加し続ける借金の流れがない限り存続できない。それ故、借金のシステムであり、銀行家の支配力を強化するシステムである。

国の借金

政府はお金を創造しない。お金の欠乏のため、最早、個人から徴税したり、個人から借りたりできないとき、政府は銀行から借りる。
その操作は、私の場合と全く同じである。国全体が担保である。返済の約束状は担保付である。お金の融資は、1本のペンと数滴のインクで作られる口座上の数値である。
かくして、1939年10月に戦争の初期費用を工面するために、銀行に800億$の融資を求めた。銀行は誰からも1セントも奪うことなく、政府の口座に800億$を融資し、政府は800億$分の小切手を切るための新しい根拠を手にした。
しかし、1941年10月に政府は元本と利子を含めて832億$返済しなければならなかった。
徴税を通して、政府は使っただけのお金を国から取り除かねばならなかった。しかし、その上、国から更に30億$引き出さねばならなかった。その30億$は、銀行家によっても、あるいは誰か他の者によっても作られていなかったお金である。
政府は存在するお金を見つけることができるのだということをせいぜい真実だと認めるとしても、創造されなかったお金をどのようにして見付けられるのであろうか?
明白な事実は、政府がそれを見付けていないということである。それは単に国の負債に追加されている。これは、国の発展がより多くのお金を必要とするにつれて、それだけ国の借金が増える理由を説明している。全ての新しいお金は銀行家を通して負債として世に出て、銀行家は実際に発行した以上のお金の返済を要求する。
そして、国の全住民は、集合的に為した生産に対して、集合的に借金しているのを知る。戦時生産の場合、そうである。平時生産、すなわち道路、橋、給水設備、学校、教会などの生産の場合も、そうである。

通貨の欠陥

その状況は、この信じ難い事に辿り着く。流通している全てのお金が銀行だけからやって来る。通貨や紙幣さえ、銀行によって放出される場合だけ流通する。
さて、銀行は利子付きでお金を貸し出すことだけで、お金を流通させる。これは、流通する全てのお金は銀行から出て行き、いずれの日にか利子分だけ増やして銀行に返済されねばならないことを意味する。
銀行はお金の所有者のままである。我々は借り手に過ぎない。 もし、ある人々が長期間あるいは永遠にそのお金を手放さないで済んだならば、他の人々は金融上の約束を果たすことが確実に出来ない。
多数の個人および企業の破産、積み重なる抵当、および増大し続ける公共の負債は、そのようなシステムにとっての自然な果実である。
お金が存在するようになるときに利子を請求することは、非合法で道理に合わないし、反社会的であり、正しい算術にも反している。それ故、通貨の欠陥は、社会的欠陥であるのと同程度に技術的欠陥でもある。
国が人口においても生産高においても発展しているとき、より多くのお金が必要とされる。借用契約無しで、新しいお金を手に入れることが不可能であり、それは集合的に返済不可なのである。
そのようにして、我々は二者選択を迫られる。成長を断念するか、借金をするか。大量失業を受け入れるか、返済不能な借金漬けになるか。そして、全ての国で議論されているのは、正にこの板ばさみである。
アリストテレス、およびその次に聖トーマス・アキナスが、お金はより多くのお金を生まないと書いている。しかし、銀行家は、お金がより多くのお金を生むという条件でのみ、お金を存在するようにしている。政府も個人もお金を創造しないので、誰も銀行家によって請求される利子を創造しない。たとえ、合法的であろうとも、この発行形態は不道徳で無礼である。

衰退および退廃

政府と個人に借金を強いる、国のお金のこの作り方によって、政府および個人に対して等しく現実的な独裁制が樹立される。
独立した政府は、小集団の不当利得者への借金の署名者になっている。何百万人もの男、女、子供の代表者である大臣が返済不可の借金に署名している。利益と権力にだけ関心のある徒党の代表者である銀行家が国のお金を作っている。
これは国力衰退の目だった特徴の一つであり、それについて、教皇ピウス11世は次のように話している。政府はその高貴な機能を譲り渡し、私的な関係者の召使になっている。
国を導くことをしないで、政府は単なる徴税者になっている。国税庁に徴収された税金の大部分が、犯すべからざる税金が、何の議論もされず、当然のことのように国の借金の利子返済に回されている。
更に、取り分け、人々から税を徴収することや、至る所で自由を制限するために、法律が制定されている。
お金の創造者が返済されることを保証するための法律はあるが、人が極度の貧困で死ぬことを防止するための法律はない。
個人はというと、お金の不足が狼の精神を発達させる。沢山の商品を前にして、一般的には不足しているお金を持っている人々だけがその沢山の商品に手を伸ばす権利を有する。それ故、競争、“ボス”の専制、家庭内の争いなどが生じる。
少数の人々が他の全ての人々を餌食としている。大多数の人々がうめき苦しんでいて、多くの人々が最も侮辱的な貧困の中にある。
病人は世話をされない。子供達は貧しく栄養不足である。才能は発達しない。若者は仕事が見付からず、家庭や家族を持てない。農夫は農場を失う。生産業者は破産する。家族は困難でもがく。これら全ては、お金が不足しているということ以外に説明しようがない。銀行家のペンは、人々に貧窮を課し、政府を奴隷状態に陥らせる。

http://rothschild.ehoh.net/material/41_08.html

国がお金を作るとき、すなわち銀行からお金を借りる時、その担保になるのは何か? 国民の生産力、つまり労働力である。つまり国は、それがもつ国民への徴税権を担保にお金を借り入れているのだ。つまり国が銀行からお金を借りるというのは、国民を銀行家の奴隷として国が売り飛ばしているも同じなのだ。

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