ヘイトスピーチは日本精神に反する!

先日、ネット上で話題になった「京都を生放送中の韓国人キャスターに対して発生したヘイトスピーチ」の件である。これはもうまったくいただけない。というより同じ日本人として腹が立って、情けなくてしかたがない。


動画も出回っているようだが、そうするとこのブログまでも汚れてしまうような気がするのでここに転載するのもやめておく。


記事の内容から薄々感じ取れている人もいると思うが、このブログの管理人はどちらかといえば、反特アである。そんな私が怒り心頭に発しているのである。どれだけ大きな怒りなのかは察していただきたい。


もっとも反特アというのは誤解を招く。日本主義者であるといった方がよいだろう。日本主義とは何か? 誤解を恐れずにいってしまえば共存共栄主義である。そこにあるのは八百万の神々が仲良く暮らす多神教的世界観である。異物を排除しないオープンマインドな感性である。自らを唯我独尊とし、その規範に合わない他者を排除する独善的な一神教的世界観とは真逆な感性である。


しかるにここでの日本人のふるまいはあきらかに異物を排除する意図にもとづく行動である。それは他者との共存共栄を拒否する独善的な行動である。そうした行為は、八百万の神々に象徴される多神教的世界観に基づく本来の日本精神とは相反するものだ。


また客人をもてなすとまではいかずとも遠方よりの客を不快にさせないという日本的美徳にも真っ向から反する。


そもそも遠方よりの客人あるいは外国人というのは、少数者である。多数者が数を頼んで少数者をいたぶるという構図は、「いじめ」以外の何ものでもない。それは日本人が古来忌み嫌ってきたいじめのなかでももっとも卑劣な弱い者いじめである。その意味で、この日本人の行為は、けっして「愛国的」な行為などではない。たんなる弱いものいじめであり、むしろ非国民的な行為というべきである。そして真に日本を愛する人であれば、こうした弱いものいじめに対して何らかの声を上げるべきである。義を見てせざるは勇なきなりである。真の愛国者であるならば、この愚かな男の行為を非難すべきである。


そのような他者の排除が最終的に何をもたらすのか? それは日本ならではの多神教的世界観の崩壊であり、それはすなわち日本精神の崩壊である。日本精神の崩壊とは何か? それは日本と日本人の消滅である。日本人の消滅ーーもし日本に仇なす者がいるとすれば、これはまさに彼らの最終目標であろう。そして日本人がその古来の伝統を離れて他者を排除するということは、日本消滅を願う彼らの策略に乗せられるということであり、それこそ彼らの思うつぼである。


もしどうしても歓迎したくないというのであれば、それなりに礼儀をもって遠慮してもらうべきだったろう。敬して遠ざけるという方法だ。少なくとも「ファッキングコリアン」と面と向かって叫んでいるあの日本人のやり方は、無作法すぎるし、どうみても日本的美意識にもそぐわない。むしろあの男こそ、美しい日本人の心とはかけはなれた日本社会の「異物」のような存在だ。日本的美意識を理解しない「外人」といってもよいだろう。


しかし、こういうとこんなことを言う人が必ず出てくる。「あれは日本人ではない。韓国人だ!」と。こういうのを輪をかけたバカというべきである。自らの規範にあてはまらない人物をみな他者として排除するこうした心性ほど本来の日本的心性からかけ離れたものはない。


だからこそ、ここにはより重要な教訓がある。それは日本人のなかにもこのような「バカ」がいるということを私たち自身が認めることである。ここは八百万の神々が集う豊葦原の瑞穂の国なのだ。いろんな神様がいるのは当たり前である。当然ながら、なかには空気を読めない愚かな神様もいるだろうし、根っから心がねじまがった悪神もいらっしゃるだろう。それがこの日本という国のそもそものあり方なのだ。


残念ながら、このように都合の悪いものをみな他者にせいにしてしまう日本人が増えているのも事実である。ことほどさように愚かな神様、卑怯な神様が表に出てきていらっしゃるのも事実である。しかしながら、それでもなお我々は、普段誰にも知られず片隅で不満をかこっていることの多いそうした愚神、悪神をたしなめることはしても、排除すべきではないのである。数を頼んで「いじめる」ようなことをしてはならないのである。そうした愚かさ、邪悪さもみなその懐にかき抱いた上で、天が下それぞれの所を得さしめるのが日本精神の真骨頂だからである。